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4 浦浜集落の田の神石像

 京田のとなり、竹原、塩屋堀の田の神には、「弁指」の刻銘が見られる。

「弁指」「功才」の銘文(塩屋堀田の神)

 ベンザシは、漁撈制度で重要な役を担い、漁の采配をする立場の人は、漁村では長老として権威を持つようになったとされる(注3)。古代荘官の弁済使に起源を持ち、近世薩摩藩では、浦役を補佐する役として弁指があった。弁指は在郷の功才(名主)にあたり、名頭から選任された(注4)。

 柳田國男・倉田一郎による「分類漁村語彙』(1938年)では、次のように記載されている。

ベンザシ 九州に弘く用みられる語。ハッダ網の指揮者をさうよぶ所が多い(民學、五ノ六號)が、肥後の御所浦島などでは、地曳網の頭にもこの名があり、それと同時にその南方に連なる島々では濱の部落の區長と名づくべき役人をもベンザシと謂った所が多い。獅子島ではもと是を入札できめたと言へば、漁と行政とを一人の權限に委ねるを便としたのであらう。慶長八年の日蘭辭書には、ベンザシは主より仕事を命ぜられた漁夫の頭、或處にては農夫の頭とある(方、三ノ三號)。豊後の方では、農家の主人又は長男をベンザイドンといふ例もある。

竹原の田の神石像

 また、下野敏見は、種子島のベンザシについて詳細な報告を行い、同じく浦役であるムラギミとの全国の分布構造比較から、ムラギミが古い浦長であったと指摘している。〔下野1989 277ー303頁〕

 この論文の中では、加世田郷の大浦町越路(こえじ)のベンザシムラギミ伝承が紹介されている。越路では、ベンザシは明治初年まであり、百姓のオッナ(乙名。大人)に相当する家柄であったという。その下に、2組の地引網それぞれに、ムラゲン(ムラギミ)が従属して伝統漁撈を管理運営したという。また、越路とともに加世田五か浦を構成する小湊、片浦、小浦、野間池にも同様にベンザシ・ムラゲンが存在したことが考えられるという。〔同書293-294頁〕

 この加世田五か浦は、万之瀬川(まのせがわ)を跨いで、田布施三か浦の南西にあたり、現在は同じ南さつま市のうちである。

 ベンザシは、古代の弁済使にゆかりを持ち、九州では、近世、漁撈やムラを取りまとめる役職呼称の一つであった。タノカンサァの「弁指」刻銘から、田布施三か浦という浦浜としての社会組織を垣間見ることができる。さらに塩屋堀の建立銘文には、漁村の「弁指」役とともに、農村の名主にあたる「功才」の文字も刻まれており、半農半漁であったムラの性格を伝えている。

5 まとめ ― 京田田の神石像の位置づけ

塩屋堀の田の神石像 ここまで、麻の葉を持つ京田田の神をめぐって、筆者の現況調査、先学の調査・研究成果を見てきた。以上をまとめ、現時点での整理としておきたい。

@京田の田の神は、「田の神石像」という南九州特有の市民生活の基盤をなす文化の特色を示し、シキを被って法衣を付けた典型的な「僧型」の田の神石像である。

A南さつま市内の田の神石像には、メシゲ(しゃもじ)と鍬とを持つものが多いが、麻の葉を両手で持つ姿は、京田独特である。また、近世浦浜の社会組織「浜高」が、今も「田の神」及び「アサドン(麻殿)」という生業神の祭祀を伝承していることは、大変貴重である。

B以上により、当該物件は南さつま市にとって重要な民俗文化財と考えられる。


表1 金峰町の田の神石像一覧(注2
集落 建立 像高 メシゲ 特徴的な銘文
1 高橋 1716年 74cm
2 牟田城 57
3 塩屋堀 1851 65 「弁指」「功才」
4 竹原 86 「麻殿」「辨指」
5 京田@ 1731 76 「講衆中」「主取」
6 京田A 83
7 大塚 65
8 池辺稲葉 1855 62.5
9 池辺中 1720 66
10 下馬場 1715 61
11 池辺門前 69
12 尾下 1814 113
13 中津野 1777 75 「庚申供養」
14 新山 1737 96 「庚申供養」
15 浦之名 1800 70 「主取」
16 扇山 1810 56
17 白川東 1720 86 「庚申供養」
18 白川中 1813 63.5
19 白川西 88.5
20 宮崎 1732 71 「庚申供養」
平均・総数 1771年 74.2cm 11 13 3 2
  

〔注〕

1 下野敏見は、史料分析をもとに、神舞の発生→神職型田の神の登場→田の神舞の発生→田の神石像の展開という、田の神石像の成立過程を提示している。〔下野2004 55-97頁〕
2 金峰町の田の神については、小島摩文が『鹿児島民具28号(金峰町特集号)』で悉皆報告を行っている。表1は、このデータをもとに、今回筆者が整理した。
3 『日本民俗大辞典・下巻』515頁、立平進執筆担当記事「ベんざし」を参照。
4 『鹿児島大百科事典』893-894頁、原口虎雄執筆担当「弁指」及び109頁同執筆担当「浦役」を参照。

〔参考文献〕

小野重朗 1981 『民俗神の系譜 - 南九州を中心に - 』 法政大学出版局
小野重朗 1996 『南日本の民俗文化W 増補農耕儀礼の研究』 第一書房(初版1970 弘文堂刊)
金峰町史編さん委員会編 1989 『金峰町郷土史下』 鹿児島県金峰町
小島摩文 2016 「金峰地区の田の神石像」『鹿児島民具28号(金峰町特集号)』 鹿児島民具学会
下野敏見 1989 『ヤマト・琉球民俗の比較研究』 法政大学出版局
下野敏見 2004 「田の神と森山の神』 岩田書院
福田アジオほか編 2000 『日本民俗大辞典・下』 吉川弘文館
南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室編 1981 『鹿児島大百科事典』 南日本新聞社
柳田國男・倉田一郎 1938 『分類漁村語彙』 民間伝承の会(1975国書刊行会復刻)

〔謝辞・付記〕

 今回の調査は、南さつま市教育委員会からの諮問を受け、市文化財保護審議会の調査員として実施したものです。
 実測等の実地調査は、令和2年10月5日に、京田浜高組合のI.T.組合長、京田自治会のY.T.自治会長の案内で、文化財保護審議会の林眞古刀会長・戸崎勝洋職務代理・篠原有史郎委員と行いました。
池辺中の田の神石像 また、聞き書き調査は、同年12月13日に、京田浜高組合会計のK.T.氏(昭和25年2月4日生まれ)・Y.T.夫妻から、祭祀状況等についてお話を伺いました。
 京田浜高組合のI.T.組合長、Tご夫妻には貴重なお話を伺い大変ありがとうございました。小野先生が70年代までに調べた内容がどのように変容しているか注目して調査しました。祭祀は簡略化されているものの、講帳から講員の持ち分に変わりはなく、現在も大切に麻講が続いていることは驚きです。
 麻を持つ田の神については、「いろんなタノカンサァが伝わってるんだなあ」と思っていましたが、京田独特の貴重なものと今回改めて気づきました。30年ほど前に撮影した写真を取り出すと、そこには、当時まだ耕作されている田んぼの前で、今と変わらぬ姿のタノカンサァを写っていました。
 1992年に鹿児島に来るまで、田の神というのは春秋に去来するもので、姿は見えないものと思っていました。それまで調査していた高知ではオサバイサマと呼び、田植え前に水口にお供えをする習俗が田の神の祭りとなっていました。
 鹿児島は廃仏毀釈が激しかったといえ、石像の仁王像や武家屋敷の石垣、そして田の神石像と、実に豊かな石造文化を今に伝えています。時代とともに変容していく習俗もあるなか、貴重な有形文化は確かに語り継がれます。
 今回は、田の神石像の実態に焦点を当てた調査でした。今後はベンザシや地引網など、浦浜集落の伝承文化も探っていきたいと思います。

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