*南さつま歴史街道 - 名勝図会

三国名勝図会
第26巻 薩摩国川辺郡 (2)

薩摩国川辺郡 坊泊

坊津港の現景


史料 注・固有名詞

7 叢談

7-1

三宅国秀が事跡

永正十三年、備中国蓮島の城主、三宅和泉守国秀、琉球国を取んと欲し、兵船を率いて坊津に至り。順風を待つ 興岳公、大将軍足利義澄に啓して、兵を発し三宅が軍

【三宅国秀】
○永正十三年:1516年
【興岳公】島津忠隆。島津氏第14代当主。(1497〜1519)

26-37b

を破る。時に我軍風に順ひ火を放ち、国秀が船を焚く。悉く、焼溺す。

○悉く(ことごとく)

26-38a

7-2

明人茅国科事跡

朝鮮の役に、新塞大捷以降、明人和を講じ、兵を罷めんことを乞ひ、裨将茅国科を 松齢公に、劉天爵を小西行長に送て、質たらしむ。諸将兵を(ヲサ)めて国に帰るや。二質を大坂府に拘ふ。慶長五年、五大老議し、明の諸囚、及び二質を明国に送り還さしむ。於是天爵は肥後より、国科は薩摩より、送帰す。国科薩に至て、暫く留る。時に書牘四通を、我裨将島津図書頭忠長に遺す。其二通を左に記す。

都司渭浜茅国科、拝図書頭老将軍大人麾下、咫尺高軒、極欲躬叨談一レ濶、又悉煩動興居、是以未敢来耳、謹差官代候、聊具詩扇四握、拙書六輻、花瓶一対、用表寸心、久旅之物、乞情宥幸甚、庚子花朝日、渭浜書、前日薄儀何足謝、乃承使翰、又領、益増惶恐、予欲

【茅国科】
○朝鮮の役:慶長の役
○裨将:次将。副将
【松齢公】島津義弘。島津氏第17代当主。(1535〜1619)
○慶長五年:1600年
○書牘(しょとく):手紙、書簡
○島津忠長:島津氏の武将。義弘の従兄。(1551〜1610)
○咫尺(しせき):近い距離。貴人にお目にかかること
○躬(みずから)
○叨(みだりに)
○濶(ひろく)

親謁床下、又恐煩動、未敢来也。昨予差官、前往泊津、看船、今尚不廻、抑不知何日可帰棹、尤望麾下維持、俾早行、為感、三月初八日、都司渭浜書、図書頭老将軍大人麾下 八月 松齢公坊津の土人鳥原喜右衛門胸宗安をして、百余人を率ひ、国科を護送し、坊津より舟を発し、福州に至る。此より国科は、幢蓋前に導き、宗安は、車に乗て行く。礼遇甚厚し。北京に至る。其兄茅国器が家に館す。留ること月余なり。一日明主宗安を引見し、饗宴を賜ふ。俗人をして音楽を奏す。宗安以謂く皇国の嘔曲を聴しめんと。廼ち高砂の嘔を唱ふ。明主及び諸人、是を聞て其意を解せず。以為く日本の使者、郷思の切にして、哀歌するなりとし、是を慰めて曰、速に還らしめん、必ず哀むこと勿れと。宗安帰るに及て、紅白紵若干を贐けす。且云薩摩王仁恵にして、国科を護送す。其恩勝て謝すべからず。故に是より毎

【松齢公】島津義弘
【鳥原喜右衛門胸宗安】
○幢:旗鉾
○廼ち(すなわち)
○贐(はなむけ)

26-38b

歳商船二艘を薩摩坊津に遣し、薩摩も亦二舶を福州に遣すべし。宗安帰り報ず。毎に人に告て、商舶の来るを以て已か功とす。時に売人伊丹屋助四郎なる者〔助四郎は、素泉州界津人先是泗川にあり。貨を通ず。因て 松齢公是に宅を鹿児島、及び山川に賜ふ。故に来り家す。〕 是を聞、次年姦民を誘ひ、洋中に待ち、唐舶の来るを伺ふ。唐舶果して来る。其人を殺して、貨を奪ひ、舶を焼く。潜に売て已か利とす。於是衆人唐貨の多く出るを怪む。糺して其実を得たり。廼ち誅に伏す。

【宗安】鳥原宗安
○糺す(ただす)

26-39a

7-3

木下大膳大夫吉俊事跡

吉俊は朝鮮に於て 松齢公に猟虎の命を伝へし人なり。其後石田三成が為に讒せられ、薩州坊津に配流せらる。既にして 貫明公に命して誅ぜしめ、加世田辻堂にて是を斬り、首を名護屋に献す。

【木下大膳大夫吉俊】
【松齢公】島津義弘
○讒(そしる)
貫明公】島津義久。島津氏第16代当主。(1533〜1611)
【加世田辻堂】

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