節 | 史料 | 注・固有名詞 | 頁 |
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7 叢談 |
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7-1 |
三宅国秀が事跡 永正十三年、備中国蓮島の城主、三宅和泉守国秀、琉球国を取んと欲し、兵船を率いて坊津に至り。順風を待つ 興岳公、大将軍足利義澄に啓して、兵を発し三宅が軍 |
【三宅国秀】 |
26-37b |
を破る。時に我軍風に順ひ火を放ち、国秀が船を焚く。悉く、焼溺す。 |
○悉く(ことごとく) |
26-38a |
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7-2 |
明人茅国科事跡 朝鮮の役に、新塞大捷以降、明人和を講じ、兵を罷めんことを乞ひ、裨将茅国科を 松齢公に、劉天爵を小西行長に送て、質たらしむ。諸将兵を 都司渭浜茅国科、拝二図書頭老将軍大人麾下一、咫尺高軒、極欲二躬叨談一レ濶、又悉煩二動興居一、是以未二敢来一耳、謹差レ官代候、聊具二詩扇四握、拙書六輻、花瓶一対一、用表二寸心一、久旅之物、乞情宥幸甚、庚子花朝日、渭浜書、前日薄儀何足レ云レ謝、乃承二使翰一、又領、益増二惶恐一、予欲三 |
【茅国科】 |
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親謁二床下一、又恐煩動、未二敢来一也。昨予差レ官、前往二泊津一、看レ船、今尚不レ廻、抑不レ知何日可レ鼓二帰棹一、尤望麾下維持、俾レ得二早行一、為レ感、三月初八日、都司渭浜書、図書頭老将軍大人麾下 八月 松齢公坊津の土人鳥原喜右衛門胸宗安をして、百余人を率ひ、国科を護送し、坊津より舟を発し、福州に至る。此より国科は、幢蓋前に導き、宗安は、車に乗て行く。礼遇甚厚し。北京に至る。其兄茅国器が家に館す。留ること月余なり。一日明主宗安を引見し、饗宴を賜ふ。俗人をして音楽を奏す。宗安以謂く皇国の嘔曲を聴しめんと。廼ち高砂の嘔を唱ふ。明主及び諸人、是を聞て其意を解せず。以為く日本の使者、郷思の切にして、哀歌するなりとし、是を慰めて曰、速に還らしめん、必ず哀むこと勿れと。宗安帰るに及て、紅白紵若干を贐けす。且云薩摩王仁恵にして、国科を護送す。其恩勝て謝すべからず。故に是より毎 |
【松齢公】島津義弘 |
26-38b |
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歳商船二艘を薩摩坊津に遣し、薩摩も亦二舶を福州に遣すべし。宗安帰り報ず。毎に人に告て、商舶の来るを以て已か功とす。時に売人伊丹屋助四郎なる者〔助四郎は、素泉州界津人先是泗川にあり。貨を通ず。因て 松齢公是に宅を鹿児島、及び山川に賜ふ。故に来り家す。〕 是を聞、次年姦民を誘ひ、洋中に待ち、唐舶の来るを伺ふ。唐舶果して来る。其人を殺して、貨を奪ひ、舶を焼く。潜に売て已か利とす。於レ是衆人唐貨の多く出るを怪む。糺して其実を得たり。廼ち誅に伏す。 |
【宗安】鳥原宗安 |
26-39a |
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7-3 |
木下大膳大夫吉俊事跡 吉俊は朝鮮に於て 松齢公に猟虎の命を伝へし人なり。其後石田三成が為に讒せられ、薩州坊津に配流せらる。既にして 貫明公に命して誅ぜしめ、加世田辻堂にて是を斬り、首を名護屋に献す。 |
【木下大膳大夫吉俊】 |
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