川辺町下山田の年中行事  / / 鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME

←[下村の年中行事]

(2)下山田大倉野

●正月行事・大正月
 門松はトイノバン(歳の晩)の31日に,シラスを盛り土にして真ん中に松を立てた。松・竹・ユズリハを使う。また,以前はシラスを庭に敷き詰めたが,それをすると正月が来たなと思ったものだ。シラスは大倉野の谷の上に共同の砂取り場所を買っておいて,各々取りに行った。2,3年前から公民館にも門松を立てるようになった。「昔から立てなった」という家はない。

 元朝に水を汲むということは知らない。元日も墓参りをするが,初詣は行く人もあれば,いかない人もあった。また,金峰山(薩摩半島きんぽうざん)に登る人もあった。部落の年始会は今はやるが昔はなかった。

●七日の節
 7日の朝か,8日の午後に門松をはずして,シラスも捨てた。オネッコ(鬼火焚き)は父の代まであったと聞くが,防火のため明治になくなったようだ。西永田(川辺町永田地区にしながた集落)では続いているのではないだろうか。

 正月7日はナンカズシ(七日雑炊)と言って,満7歳になった子供が雑炊を部落全世帯からもらって歩いた。今はお金になっているようだが,それも子供が少なくなって見られなくなった。親類の人も子供の家に持っていくのではなく,子供のほうからもらいに来た。「七日の節」という言葉は使わない。

●小正月
 昭和30年代まで屋内の角や仏様へ,エノキに角餅をつけて飾ったりした。モッドシという名前だったかもしれない。墓には飾らない。

 二才入りは自分が入らなかったのではっきり知らない。旧制中学に進むものは二才に加わらなかった。小正月の訪問者無し。ハラメということは田部田(川辺町たべた地区)などでしていたのではないだろうか。こちらはやらない。なり木責めなし。小正月にネコヤナギで箸を作って食べる風習は父の代まであった。

●花見・農耕儀礼,その他
 花見はお釈迦様の生まれた4月8日に,隠れ念仏のバンヤで小組合一緒に集まって縁をひらいた。ナンコや踊りなどをする。また、この日前後に花見競馬といって,大倉野で草競馬があった。馬は川辺郡内のほか,指宿のほうからも集まった。この競馬は加世田の旅館の主人が理事をしていたので,高倉競馬と呼んでいたが,実際には大倉野に競馬場はあった。戦前は賭けも行われ,小学校の遠足にもなったり,昭和6年に始められたときには桜の木の枝に登って見なければならないほどの盛況振りであった。戦後縮小され30年代までにはなくなっている。競馬組合が管理していたが,川辺町から県へ譲られ,今も県有地になっている。大倉野は島津の殿様の時代にハヤマという馬揃えがあった場所とも言われ,競馬場と縁があるというので碑がたっている。下山田の早馬大明神には琉球侵攻の時に,こちらの武士が参拝して行ったとも言われている。早馬大明神は竹屋神社に合祀されているが,日吉部落の中越(ひよし・なかこし)のウッガン(内神)には当時の兵士が祭ってある。

 イ(結い)で農作業をしていたころは,田植え後その人たちが集まって食事をしたりした。鶏などをつぶして当時としてはご馳走であった。20年くらい前までにはなくなったのではないだろうか。収穫の際は何もしない。亥の日も行事はない。

 「今日はガッパ(河童)の日だから,出てはいけない」という日があったが,彼岸だったか,何の日だったかははっきり覚えていない。水神さまは山の神と同じもので,田植えが済むと降りてくるとも聞くが,供え物や行事などはしない。

*たかくらは,加世田市に属しているが大倉野のすぐ西隣にあたる集落名

●七夕行事
 七夕飾りは6日の夜に作る。竹は自分のカラ竹を用いるが,中には竹がなくて親類のをもらってくる人もある。男の子は下げる飾りを長くしたが,女の子は着物の形にしたりした。7日の朝に家の前や,垣根に沿ってこの竹を立てた。処分は日にちは決まっていないが焼いていた。

●盆行事
 お墓掃除は今は日曜日にするが,以前は13日にしていた。仏様は13日にあの世を立って16日に帰っていく。盆の期間中は仏様は墓にはいないのにどうして墓参りするのか不思議である。ヌイクイモッという牡丹餅をお供えしたりした。里芋やトイモガラを使った料理を特別に作るということはなかった。迎え火は屋外ではせず,初盆の家だけ親類から贈られた提灯を仏前に灯した。

 盆に集まっていた親類の子供どおしで,1番年長の家の外でボンガマということをした。自分たちの食べるものを持ってきて,急須ぐらいの釜で煮炊きをする。食べるときは木の葉を皿にして食べる。大正11,2年ころまではあった。男の子だけでしていた。

●八月十五夜
 昔からやっていたが,昭和40年前後にロープを小組合(集落)で買って,今から15,6年前子供が少なくなったのでやらなくなった。

 綱の芯にするカンネンカズラは子供が1週間くらい前から山に取りに行った。決まった山はなく,2,3日で済む場合もあった。これを芯にしてカヤをネッテ(綯って)いったが,大正の終わり頃からワラに替わった。カヤの時代には山に取りに入ったり,畦畔に生えているものを用い,それをカヤヒキと呼んでいた。頭の上にかぶって持ってくるようなことはなかった。ワラになったのは,養蚕が盛んになり子供にも加勢させたのと,山などに行くのが危ないということなどが理由だろう。ツナネリは子供のカシタ(頭)が芯をもって,その周りにカヤを二才がネッテいった。長さは30メートルにもなる。

 まず,公民館とバス停のある十文字(十字路)との間の道で,渦巻き状に綱をおいて,渦の真ん中にある先端と,しっぽ(外側)にあるもう一方の端を持ち,二才が危なくないように解き,青少年対親などで引き合う。これが終わると綱を土俵にして相撲を取った。相撲は昔は男だけで取っていた。

 明くる日には綱をほどいて,堆肥用に売っていた。買った人が自分で運んで帰る。

 家での飾りは,昔は臼の上に箕を置いて,その中に竹筒にいれたススキ,栗など,前にぼた餅や,お皿に里芋を供えた。カライモを供えるところもあった。

●祭りと民俗芸能
 1月4日に隠れ念仏のソウゾクコウをする。お寺さんを呼んでお経をあげてもらう。このとき講頭が交替する。この役は小組合を東西に分けて,各一人ずつ出して2名が1年交替。ヤドは半年に1回移っていたが,今は公民館に祭ってある。

[交易の民俗]→

[薩摩民俗HOME]  [サイトマップ]  [民俗INDEX]


(C) 2001-2004 薩摩半島民俗文化博物館 - 鹿児島・半島文化 - 半島文化へのお便り