屋久島の木こりと運搬具 - 世界自然遺産屋久島における山師の技術と伝承 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
●調査日 1991年3月
●調査地 鹿児島県屋久島 上屋久町(かみやくちょう)
●初出 『上屋久町民俗資料調査報告書(2)上屋久町の民俗』 1992 鹿児島県上屋久町教育委員会 98-104頁(原題「山樵と運搬具」)
●目次
1 屋久島楠川の山樵と運搬具
2 屋久島宮之浦の山樵と運搬具
3 屋久島一湊の山樵と運搬具
4 屋久島永田の山樵と運搬具
□屋久島山樵と運搬具のまとめ
(1)山樵 (2)運搬具 (3)若干の考察
●伐採
まず屋久島桶川における舟大工の伐採方法を記す。木を切るときは地主とあらかじめ交渉をして、民有林を切る。官林は切れない。切り出す前に山の神様に「この木を貰いますよ」といって、焼酎のカンビン(1合ビン)と米、塩を菓子ダラ(皿)に入れたものを木の根に祭る。それが終って切るときには1メートルくらいのコシノコを大きくした鋸を使い、地面に平行に1人で切っていく。2人で引く鋸も戦後導入されたが評判が悪く殆ど使う人はいなかった。実際1人で切れる仕事でも2人必要だからである。丸太はヨキで枝を落とし干して置くと軽くなる。それをワキノコとキリノコを使って板木にする。
専門の山師は島外からやってきて住み着く人が多かった。四国や紀伊、山梨、宮崎、鹿児島などから来る。屋久島へ島外からやって来る人には,ばくち打ちなど落人(おちびと)や金貸しもいた。
伐採や加工に使う刃物は鹿児島から毎年訪れる商人から購入した。商人は2、3人いてヨキ・ノコなど山仕事に必要なものを山師の暮らす山のうえまで売りに歩いていた。
●運搬
舟大工が切り出した木材の運搬にはカイコ(カリイコ)と牛が使われた。
カイコは杉製で爪の有るものを自分で作った。運ぶ板木の長さは決まっていて、1人でカイコにのせる場合1間のもの、2間以上は2人で担いだ。大正時代には板木を1本担いで帰ると1銭が貰えた。カイコに乗せる場合は板木を紐(シュロ製)でくくる。牛は丸太のままのとき、木の先に綱をくくりつけ、牛の鞍(引き較)にかけて引いた。人間は牛の前にいて引く。馬で引く場合もあるが、そのときは後ろからついて行く。橋の上では前後1人ずつ付き、また道に木の根などがあると、人間が先に行っててこではねのけ丸太が掛からないようにした。そして下りてくると丸太は自分の家の庭に1月くらい置いて乾かした。
山師はキンマ(木馬)を使っていた。そりの裏には重油が塗ってあり、キンマ道の上を下ろす。キンマ道はあらかじめ通過する地主と相談しておいてただで使わせてもらう。何年でも同じ道を使っていた。トロッコは桶川へは下りてこなかった。大正11年山頂付近の小杉谷から下屋久の安房までトロッコが開通したが、それ以前は桶川へ下ろすのが最も楽なコースで、「稼ぎ道」と呼ばれていた。宮之浦には終戦前十年くらいに3、4里奥からトロッコが付いている。
●営林署
桶川に営林署があった。下屋久では小杉谷にあった。
●信仰
旧正月16日、旧5月16日、旧9月16日は山の祝いといい、山仕事をするひとは家に親戚などを呼んで山の神の祭りをした。床の棚に祝い物としてトコロ(山芋みたいな根)、炭、セイをもろぶたに入れて祝う。
●禁忌俗借
・山祝いの日は山へ刃物をもって入ってはいけない。20日の禁忌はない。
・切っても良い木と悪い木の見分けかたは知らない。
●腰さげ運搬
茶つみテンゴ 直径30センチくらいの篭で底は口より小さくなっている。腰の前に提げて摘んだ茶葉をいれる。マルテンゴとは言わない。
●小杉谷
山師の開拓村で営林署や小学校もそこにあった。大正時代に海岸の安房までトロッコが付いたが、今は廃れて最後の住人は7、8年前山を下りた。
●信仰
旧1月15日、旧5月15日、旧9月15日は山の神の祭りがある。営林署が中心になって山口の神様のところで踊りなどがある。
●肩担い運搬
イネギ 担い木という意味で一人用。人糞や水をいれた桶を、イネギの両端から下がる紐や鈎に引っ掛けてつかう。吊り下げる紐には藁よりも強い、シュロの方を良く使った。
イネボ 担い棒の意味で二人用。二人で担いだイネポーの中央にモッコなどを引っ掛けて使った。竹はぐるぐる回り節があたって痛いので杉で作る場合が多い。モッコは宮之浦では藁で作っていたが、吉田ではかずら製であった。農業用にはモッコはほとんど使われず、主に工事現場で使用されている。
●腰さげ運搬
テンゴ 竹製。大きさは用途によってさまざまあるが、直径40センチ探さ30センチ位で畑に弁当を入れてもっていったり、磯物取りに使ったりする。茶摘みテンゴは丸いのでマルチンゴとも呼ぶ。四角いオトコテンゴというのもあり、それは魚釣りなどをしてサバなどを入れて帰った。
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