屋久島の山樵と運搬具 1 / 2 / 3 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
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●伐採
上屋久における森林伐採には山師による屋久杉伐採と、大工などによる民有林の小杉伐採が見られる。山師は山小屋に泊まりがけで作業をする形態をとり、島外からの移住者も多い。大工などの小規模な伐採は作業も個人で行う場合が多く、樹齢30年から60年までの小杉を伐採した。作業に使う刃物は、商人が内地から訪れて販売する形態と、山師がカタログを見て解り寄せる形態、それに部落内の商店で購入する場合が見られる。
●搬出
山師の搬出には牛馬とキンマ(木馬)、トロッコが主に使用され、大工の木材搬出にはカイコ(背負いばしご)による人力運搬と牛馬を利用した畜力運搬が見られた。トロッコは大正末から敷設されはじめ、小杉谷から下屋久安房への搬出路が中心であった。それ以前は山中から桶川へ下ろすルートが「稼ぎ道」とよばれ最も頻繁に利用されている。
●営林署
上屋久は熊本営林局上屋久営林署の管轄にあたり、各部落には駐在員が派遣されている。伐採許可を出す外に、山の神の祭りを主催するという伝承も収集した。
●信仰
旧暦正月15(16)日、5月15(16)日、9月15(16)日の山祝いの日には山仕事をする人は各戸で山の神をお祭りした。
御岳参りも各部落で見られるが、一湊では伝承が希薄であった。
●禁忌俗信
山祝いの日、毎月20(23)日、正月1日、2日は山へ入ってはならないという禁忌が見られる。その他に俗信として神の木の見分けかた、山の神との遭遇伝承なども収集した。
●肩担い運搬
担い棒には1人用のイネギと2人用のイネボーとがある。イネギの古い形態では吊下げる鈎に鹿の角を利用していた。イネギはコエタンゴや水タンゴをつるし、イネボーは主に工事現場などでモッコを吊った。
●腰さげ運搬
茶摘みテンゴ(マルテンゴ、カイテンゴ)、トンコチ(刻みタバコ入れ)、などがある。
●背負い運搬
カイノ(背負い絶)、カガイ(背負い袋)、テンゴ(背負い篭)、カイコ(背負いばしご)、などがみられる。カイノは主に女性が薪などを運ぶ時にスイタ(背中あて)と一緒に使用する。一方カガイ及びカイコは主として男性が使用する。
●頭上運搬
どの部落にも見られない。
●運搬具の製造
一湊などは水田がなく藁が取れないため、吉田、永田、宮之清などから藁を買い求め部落内の専門職人に編んでもらっていた。このことは漁村での分業形態と交易を示すものとして注目に値する。
屋久島にそびえる山々は、海に生きる人々にとって薩南諸島における航海の目標であり、一方そこに暮らす人々にとっては生活の源として、また信仰の対象として親しまれてきた。屋久島の民俗は、この「山」に対する島内外からの視点の相違に注意して考察されなければならない。別の表現をすれば一方は海の民俗であり、もう一方は山の民俗である。ここでは内側(浦人)の理論について文化人類学の高谷紀夫の考えを紹介し、今回の調査結果を検討してみることにする。
この島の浦々は元々他地域と比較して、海との拘わりよりもむしろ山とのつながりが強かった。山々は山岳信仰の御神体(御岳)であり、「各集落の神社はすべて山を背にし海に面して、山と海をつなぐ線上にまつられ」ている。それは屋久島の人々の世界観をも現し、山と海の両方の信仰空間を取り込み、漁の神と山の神が未分化の状態にあることを示している。隣接する種子島のむらむらがマキ集落/浦集落と専門分化しているのに対し、屋久島の浦は山への志向が元々強く農漁未分化の状態にあった。[高谷三二四〜三二五頁]
例えば筆者の調査した部落(桶川・宮之浦・一湊・永田)においても、岳参りがかつて盛んに行われていたことが分かった。永田での岳参りの道順を簡単に示すと、浜→部落→岳→部落の口→浜となる。このことは先に高谷が示した農漁未分化、山の神と海の神の未分化の状態を明確に示している。ところが一湊では岳参りの伝承が希薄である。これは他の部落に比べ海への依存が強かったことが考えられる。
島内の各港はすべて河港であったがここだけは海港で、琉球諸島往来の船も時に停泊した。島内の諸村は山林を所有したが、当村だけははとんどなく漁業を生業とした(三国名勝図絵)。[角川日本地名大辞典]
さらに注目に値するのは、一湊矢筈嶽神社の信仰である。この神社は通称八幡神社と呼ばれ、矢筈岬へ通じる半島中部の海岸部に位置し、集落から港を挟んで向かい側に見えるその鳥居は港と部落を見守っている。島内で唯一漁村専門化した一湊では、背後にそびえる一湊岳よりも豊漁、航海安全を祈願するこの半島の神社を強く志向するようになったのである。
この海と山との関係は調査した運搬具の製作についても言うことができる。本来種子島などとことなり山海未分化の住民は、藁を使い様々な運搬具を作ることが可能であった。ところが漁村として発展してきた一湊では、民具製作が諸職の専門と化している。部落内では原料の藁などが手に入りにくく、さらに漁業専業化した漁民には他集落の住民に比べ製作技術も一早く衰退していった。藁は稲を作る他集落から購入し、製作はこれも他集落から結婚などで訪れた転入者に依頼するという。漁村に顕著にあらわれる分業形態と交易の発達が、一湊でも見られるのである。
以上をまとめると次のようになる。
@屋久島の民俗の考察には、「山」にたいする島の内と外からの視点の相違に注意しなければならない。
A島内の浦々は一部をのぞき本質的には漁村とは言えず、山を志向した農漁未分化の生活形態を取ってきた。
Bそれは岳参りや部落内の神社の位置としてあらわれている。
Cしかし漁村として発展してきた一湊では、海を志向したことが海岸に神社が位置することや岳参り伝承の希薄性から分かる。
Dさらに一湊では、運搬具製作の専業分化が見られ、これは漁村に顕著な分業形態と交易の発達を示すものである。
〔参考文歓〕
高谷紀夫「薩南諸島の社会史」(大林太良編『海と列島文化5隼人世界の島々』、一九九〇、小学館、三〇九与三四六頁)。
「一湊」『角川日本地名大辞典四六鹿児島県』、一九八三、角川書店、一〇八頁。
今回の上屋久での調査が、筆者にとって鹿児島での初めてのフィールドであった。山樵・運搬具という与えらえたテーマについては事前知識の不足から十分調査しきれなかったといってよい。課せられた第二のテーマは「四国と異なる民俗文化に触れる」、であろう。言い換えればストレンジヤー(非郷土人)の筆者が、屋久島(大きく見れば文化の接触点カゴシマ)の風土と人をいかに掟えられるかと言うことであった。研究の原点高知を旅立ち、修行の地鹿児島で限られた時間内にどれだけたくさんのことを吸収できるのかそれは筆者の努力次第である。しかしこの処女調査が以後の研究生活にとって大変有意義であったことは間違いない。
今回入学前にもかかわらず、同行を許可していただいた下野敏見先生に特に感謝し、また温かく迎えていただいた上屋久の皆さんにも深く感謝します。
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