屋久島の山樵と運搬具 1 / 2 / 3 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
←[前のページ]
●伐採
この地区は漁師が多く、また水田もないので山仕事をするひとは少ない。国有林は伐採することは出来ず、万一官林で伐採したところを見付かったら、営林署に取り上げられた。
ナタなどの刃物は部落の商店で購入するが、加世田のものが良いという。
●信仰
旧正月16日、旧5月16日、旧9月16日は山祭りといい、家で焼酎などを供えて祭る。神主さんなどが神社で三味線や太鼓を打ったりしていた。この日は山へ入ってはいけない。
●背負い運搬
カイノ 背負い縄のことで主に女性がスイタ(背中あて)と共に使う。カイノは藁ででさていて肩のところは太く、たき物などを巻いて背中でくくる。スイタは藁製で縦30センチ、横20センチくらいである。
カガイ 背負い袋のことで主に男性が使う。山へ行くときに斧や鉈、弁当などを入れる袋で、藁やかずらで出来ている。女性が山仕事に行くとき鉈などはスイタ、カイノにくくり付けていく。
カエコ 背負いばしごのことで主に男性が使い、子供用には爪がないのを用いる。紐は藁やしゅろで作ってあった。
テンゴ 背負い篭のことで、平テンゴは畑作物を入れるのに使い、カイテンゴはお茶の葉などを入れ、少し小さい。
●伐採
山師は2、3人で山小屋に2、3日寝泊まりした。山小屋の大きさは3間×10間位で、雑木でつくり、移動するときにはまた別に作る。作業の指揮を取る人をヤマセンドウと呼ぶ。伐採方法はまず、杉を倒したときに作業がしやすくするための木で組んだ台を作る。これを陣と呼ぶ。次に陣のうえに杉を切り倒し、皮を剥く。乾かした後、切る線を墨で引き製材する。道具にはハツリ、ヨキ、キーヨキ(切りヨキ)、シントリノコ、カイリョウノコなどをつかうが、四国土佐の刃物は切り口が良く、歯がハシコイ。購入方法は内地(土佐、加世田、出水、人吉など)からカタログを見て、手紙で取り寄せた。チェーンソウは戦後になって導入された。山師はケハン、ワラジ(いまは直足袋)姿。服の尻のところが汚れないように腰から鹿の皮を尻のところへ垂らす。
以上は山師の伐採方法であるが、大工(船大工、家大工)は自分の山から樹齢30年から60年の杉を切り出して使った。
●搬出
搬出には人力によるカイゴ(カリコ)と、牛馬によるもの、さらに木馬とトロッコがある。
カイゴ(背負いばしご)は人が運べる程度(150キロ)の材木を運んだ。板木はカイゴに結び付けず乗せるだけ。カイゴの紐はしゅろでできているものがよい。しゅろは腐りにくいが、かずらだとすぐに堅くなってしまう。
搬出専用の馬のことをダシウマといった。牛も使ったが馬の方が多い。馬からチェーンを引き、丸太の先に付けた杭に引っ掛ける。
木馬(キンマ)は樫の木でできた専用道(幅1.5〜2メートル)を通るそりで、そりの裏には油がぬってあった。終戦後も炭をよく運んでいた。営林署のトロッコは永田岳の中腹から永田部落の西まで昭和初期に付いた。トロッコが付くまでは国有林は一切伐採できなかった。これは主に雑木や木炭を運ぶために用いた。
●営林署
今は切り過ぎて災害につながるというので、営林署は事業をしていない。屋久島は熊本営林局の管内に当たり、部落には営林署の駐在員がいる。駐在員はヤマンダンナと呼ばれ、伐採時には駐在員の許可が必要である。
●信仰
山の神は御岳にも神社にも祭ってあり、お産の神、猟の神である。旧5月16日は山祝いといい、山の神の祝いである。山師、炭焼きなど山仕事をする人はこの日は雑煮などを食べる。
毎年旧4月と旧8月の天気の良い日に青年たちが岳参りにいく。その日の朝5時ごろ青年は体を椅麓に洗い、海岸の砂を取り竹の筒に入れて持っていく。部落には行くときに「岳参りがある日じゃろー」といって呼びにくる。おやつに8つのお握りをもって行く。女性で月の忌みの人は、神様が嫌うのでいけない。いけない人は5〜10銭の賽銭を行く人に渡し、若者達が下がる日ヨンッゴでサカムカエをする。向かえた人は青年からシャクナゲの花を貰う。その後若者達は松山(海岸のエビスさんのある松林)へ行く。
●禁忌俗信
・屋久杉は「12月のやみに切る」という。冬は木の水分が少なく締まっているので切りやすい。
・ヨキを木のそばへ立て掛けて、倒れたら切ってはならないという。神の木だから切ってはいけない。
・20日は山の神の崇りに当たるので、山へ入ってはいけない。もし入ると帰ってきてから死んだりする。
・日高繁太郎氏は毎月23日、特に正月、5月、9月の23日を禁忌としている。この日は山の神祭りだから山師、炭焼きなど山仕事をする人は山へ入ってはならなかった。氏は昭和47、8年まで山師をしていたが、山小屋で寝ていると太鼓や鐘をならして何かが通り過ぎるのをきいた。そうした音は山の神が浜で塩をとって帰っていく時間きこえる音であると言われる。その日が23日であった。
・正月1日、2日も入ってはいけない。約20年前、部落内の人がその日杉の下草刈りに山へ入り、帰ってきて寝て、次の日まわりのものが起きてみると既に死んでいた、ということがあった。
・旧5月16日の山祝いの日も入ってはいけない。
・かつて山小屋に泊まっていた山師が、大木を倒した音を聞いた。山の神の仕業だという。また風呂へ入り、出て寝ているとガラガラという音が聞こえる。次の朝風呂を覗くと魚臭かった。山の神が風呂へ入ったのだという。
●その他
・島民は伐採の権利をもっており、国有林が払い下げられると、値段は海岸着の値段から逆算して山師へ支払われた。海岸では鹿児島や大阪などから買い付けにきていた。屋久杉は強くて腐りにくいので高く売れ、終戦直後1石5万円位であった。
・現在島内には船大工は3、4人しかおらず、この部落では1人である。自分は16歳のときから師匠につき3、4年間修業をした。弟子になる時期は特に決まっていなかった。自分は家も作るし、舟大工でもある。両方出来る人は昔から少なかったが、今は師匠のいい人が少ないので、更に減っている。
●肩担い運搬
1人用の担い棒はコエタンゴ、水タンゴなどを両端にひっかけて使った。長さは自分の手が届く程度(6尺)で、終戦直後まで鹿の角を引っ掛ける鈎に使っていた。タンゴは桶のこと。
[続きのページ]→