祭礼の中の水車からくり - 南薩摩の水車からくり人形に関する「祭礼」という研究視座の提示。 | 鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME

←[(1) 水車からくりの分布と実態

(2)水車からくりの成立時期

 ここまで,南薩摩における水車からくりの分布について概略を述べてきた。次に先に定義した5要素のうち,その他のものについてこれまでの研究史等をまとめ,歴史的背景を整理してみたい。

図6 南薩摩の水車からくり成立時期
図6 南薩摩の水車からくり成立時期

●用水路

 知覧豊玉姫神社のからくり舞台がかかる花井手用水(山下井堰)は,1780(安永9)年に完成している。次に加世田竹田神社の益山用水は,1768(明和5)年に完成している。吹上地区の新田開発のため作られた麓堰は1718(享保3)年に作られている。伊作蛭子神社の水車からくりは,この堰から引かれるウシロ溝にかけられた。
 吹上温泉伝承地の用水がいつごろ作られたかは,管見の範囲内では判明しなかった。ちなみに付近にある農業用水池「宍喰溜池(通称みどり池)」は,1782(天明3)に,作られたという。
 いずれにしても,水車からくりに用いられる用水路は,18世紀上旬から中旬における薩摩藩の新田開発に伴って,整備されたものといえよう。

●水車

 新永隆士は鹿児島県内の水車利用について,「芸能としての水車からくりの時期と産業用に水車が利用された時期との関係を考えてみると,生活に密着している産業用水車のほうがたぶん先行しているであろう」と考察している〔新永1997,370頁〕。
 また,新永が整理したところによると,その産業用水車のうち,奄美の製糖水車(上掛式)は1717(享保2)年に発明されている。近代に入ると,明治時代には県内各地の金山で搗鉱用水車(上掛式・胸掛式)が用いられ,明治・大正期を中心に骨粉水車(上掛式)も県内各地で見られたという。また,精米用水車(流し掛け式)は,明治中ごろから使われはじめたという。〔同,370―378頁〕
 一方,島袋盛範は知覧の製鉄水車について,高城氏の系図から「宝永年間には知覧では盛んに製鉄鉱業が遂行」されていたようだと指摘している(宝永年間は1704―1710年)〔島袋1959,15頁〕。
 さらに下野敏見は,知覧町松山製鉄遺跡の遺構(18世紀前中期の遺物を検出)や,『種子島家譜』に記載された川辺鉄山師の記述などを引き,「薩南における水車の利用は製鉄においては山下井堰ができた安永9年(1780)よりも67年も前にすでにあったのであり,実際はそのずっと前からあったと見なけらばならない」としている〔下野1997,12―14頁〕。

●人形

 次にからくり人形については,加世田における歴史的背景として,17世紀初頭の慶長年間に編まれた『日新菩薩記』(注2)に水車を用いない人形を盆に飾らせたことが,新永隆士により指摘されている〔新永1992,143頁〕。なおこの史料では,人形を傀儡と表記している。
 一方,江平望は知覧における水車からくりの源流になったものとして次の記事を紹介している。〔江平1997,49頁〕
○宝永7(1710)年,鹿児島城下の知覧島津氏久達邸において,藩主及び家老たちに操り芝居を披露(喜入肝付家文書)
○延享3(1746)年,知覧島津氏久豪邸では,舞台装置を備え,傀儡師を雇用して娯楽(島津国史)

●六月灯

 六月灯の起源について『三国名勝図会』では,次のように解いている。(注3

2代藩主島津光久のころ(1638―1687),新照院観音堂では幾多の灯篭を灯した。すると人々の寄進も多く,また参拝者も多くなったという。六月灯はこれを始まりとして,広く藩内に行きわたった行事だといわれている。(筆者意訳)

 また,同書では灯明の解説として六月灯と万灯会との関連も記述している。このことは,先述した「日新菩薩記」でも記述されている。つまり,17世紀の六月灯成立以前から南九州に灯明を掲げる風習があったことが想定される。

●南薩摩の水車からくり成立時期

 以上,ここまで南薩摩における水車からくりの歴史的背景を用水路・水車・人形・六月灯の面から概観してきた。それを整理したものが図6である。
 それぞれの要素が,古くから様々な直接・間接的な背景を持っていることは否めない。しかし,冒頭に掲げた南薩摩の水車からくり定義のうち,特に灌漑用水路を利用する点に着目すれば,現在の水車からくりの形に形態が整えられたのは,早くても18世紀中旬以降と考えてよいのではなかろうか。

3 祭礼の中の水車からくり

表1 既存水車からくり整理表
場所 知覧
豊玉姫神社
加世田
竹田神社
吹上温泉
(湯之権現)
伝承地 市街地 市街地 温泉地
水車 垂直回転 垂直回転 水平回転
人形 浄瑠璃風 等身大 等身大
動き 仕掛け舞台 回り舞台 回り舞台

 ここでは,伝承地自体の特徴と水車からくりの発生について考察してみたい。水車からくりの伝承は,表1に示すように加世田・知覧は市街地の夏祭りで,湯之元は温泉地の六月灯で発展したものといえる。さらに今回調査した伊作本町蛭子の伝承を加えると,それが単に農村の用水路を利用した出し物ではなく,町の祭礼の中で繰り広げられてきた伝統芸能であることに気付く。知覧町郡の各伝承や川辺町平山(いずれも市街地)の伝承も,それらに含めてよかろう。
 柳田國男は,『日本の祭』の中で,祭礼を「祭の一種,特に美々しく花やかで楽しみの多いもの」と定義した〔柳田1990,242〕。そしてそれまでの神にマツラう祭が,見物人の発生を転機に,「祭」から「祭礼」へと推移していったと説いている。〔柳田1990,248―254〕
 また柳田は京都祇園祭などの風流を伴う夏祭りを,水の恵みと恐れ(疫病・水害)から発生したものとし,最後に次のように述べている。

「たとえ起源は農民と共通の信仰にあるとしても,特に夏の祭をこの通り盛んにし,また多くの土地の祭を「祭礼」にしてしまったのは,全体としては中世以来の都市文化の力であったと言い得るのである」〔柳田1990,263〕。

 水車からくりもそうした町の発達の中で捉えなおす必要があるのではなかろうか。その際,冒頭で定義した「用水路・水車・人形・六月灯の文化史及び分布圏」といういう視点のほかに,「社会変化」「演者」「観客」という3つの要素を加えて,再考する必要があると筆者は考える。

4 結びに代えて

 最後に,南薩摩の水車からくりの研究の課題を提示し,本稿の結びに代えたい。

【南薩摩の水車からくり研究の課題】
@単に農村のムラ祭りとしてではなく,マチの祭礼としての再考。
Aつまり「祭」から「祭礼」への変化の中で捉え直す。
Bそのための,演者(伝承母体・マチ)の発達史(文化史)研究。
Cさらに,演者と観客(他のマチ人)との交流史から読み解く。

 今後は,水路の通るマチにおける,他の地域との文化交流史を含め,もう一度南薩摩の水車からくりを考え直していきたい。


(1)消滅した水車からくりについての詳細は,拙著「万之瀬川流域の農村カラクリ人形芝居」参照のこと。今回は紙面の都合上,それに掲載していない竹田神社・豊玉姫神社・湯之元・伊作蛭子の事例のみ,やや詳しい調査報告を記載することとした。

(2)「日新菩薩記」の当該記述は次のとおり。日新菩薩記は,慶長2年(1597) 日新寺8世泰円守貞の編。上記の引用は,芳即正読解・上東三郎編,加世田史談会2000年発行のものを利用した。

毎年七月盆中御先祖の礼奠,在日御前の御振舞,威儀細行,五体を地に投じ,御崇敬,言の葉を以て,述ぶべきものにあらず,次に諸臣戦死の精霊,並びに一切の霊冥に,御弔の施設,総べて議すべからず得ばからざるの心行,奇異なる風情,両夜千灯或いは万灯籠を要す,是の時御家卿の緇素,皆な細工の上手を選んで,万般の技巧,堯・舜・禹・湯文武以来の有様,興亡盛衰の転変,哀楽愛悪の形を,作り顕わし,傀儡棚上にして,灯火を排げ出す処は,犬の馬場四面より始め,来巣の皆道,左右櫛の歯を並べ,終り日新寺常潤院に居りて,光明嚇ヤクたり,然る間貴賎群集して,是れ争い見る事市塵の如し

(3)六月灯に関する三国名勝図会の記事(意訳・注釈は井上が付した)。

参考文献

井上賢一 1997 「万之瀬川流域の農村カラクリ人形芝居」『薩摩の水からくり』所収 知覧町教育委員会文化財課
江平 望 1997 「知覧の歴史」前掲『薩摩の水からくり』所収
島袋盛範 1959 『藩政時代に於ける製鉄鉱業』鹿児島県立図書館(昭和7年著,昭和34年同館印刷)
下野敏見 1997 「薩南カラクリ事情と水車カラクリの成立について―知覧水車カラクリの特色とその総合的考察―」前掲『薩摩の水からくり』所収
新永隆士 1997 「知覧町の水車からくり―その動力としての水車について」前掲『薩摩の水からくり』所収
新永隆士 1992 「薩摩半島の水車からくり」平岡昭利編『九州水車風土記』所収 古今書院
松村博久・門久義 1997 「日本におけるカラクリ人形の技術史的考察と知覧の水からくりの技術的調査」前掲『薩摩の水からくり』所収
柳田國男 1990 「日本の祭」『柳田國男全集』13 筑摩書房

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