海村と里山の交易 - 陸上運搬・海上運搬・魚売り|鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
←[陸上運搬]
前節では筆者が調査した陸上運搬具を報告してきた。本節ではまず郷土誌を用いて頴娃の近代運搬史を概観し、次に海運が盛んであった頴娃海村の海運遺構を写真で紹介していきたい。
郷土誌によれば、頴娃では明治末から畜力運搬が盛んになるが、それまでは人力による運搬が主であったという〔郷土誌578-579頁〕。現在の国道226号が開通したのは大正5年で、それまでは
さらに郷土誌によれば、頴娃でも明治末ごろ荷馬車が登場しているが、それまでの物資輸送は、石垣港を集散地とした海上輸送が中心であったという〔同579頁〕。
郷土誌〔586頁〕記載の明治36年「頴娃村石垣河岸場輸出入表」によれば、移出品には菜種のほか、鶏卵、魚介類や名産である
海上輸送は大正末ごろまで盛況であったが、陸上交通の発達によりしだいに衰退していき、昭和の初めごろ以降は、頴娃の各港は主に漁港として利用されるようになる〔郷土誌588頁〕。
石垣は、天平勝宝6(754)年に遣唐使船が漂着したことでも知られた川港で、近世から大正期にかけて、頴娃地方の交易の集積地として栄えた。当時をしのぶものとしては、かつて土蔵が立ち並んだ「お蔵ん坂」と呼ばれる路地や、石積みの護岸跡、河口の船つなぎ石(メクイ)などがある。船つなぎ石は、直径10センチほどの空洞をもつ凝灰岩の自然石を利用したものである(写真2)。また、頴娃歴史民俗資料館には近世の船額、船切手、嘉永6年に新造された「権現丸」の設計図板などが展示されている。
大川地区は頴娃町で最も西側にある川港で、対岸の知覧町門之浦では海運業が盛んであった。昭和初期には大川にも四人の船主がおり、種子屋久から関西方面に木炭を輸送していたという。また小回りの運搬船のことを「合いの子」とか「イサバ」と呼んでいたという〔井上1992 76-77頁〕。
豊漁を願う恵比須が海岸にある。1991年に訪ねた時には三つの祠が連なったものであったが、現在は立派な一つの社に祭られていた。また、戦中武運長久の祈願が盛んであった
[魚売り]→