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3.交易の伝承 - 魚売り「ダウイ」

 ここまで、頴娃における陸上運搬・海上運搬について、民具と遺構を紹介してきた。最後に、伝承の中から、陸上運搬具を用いた魚売り「ダウイ(ダ売り)」の実態を報告したい。
 先に頴娃町海岸部大川でダウイに使われた民具として、「テンゴ」を報告した。頴娃町郷土誌では、次のように記載されている。

「(大正10年頃から昭和初期)当時石垣・馬渡(まわたり)・川尻をはじめとする魚行商「婦人のダ売り」が、村内や隣接の知覧・川辺方面に売り歩き一日600キログラムくらいを売りさばいたというが、いわしなどは始末に困り、桑などの肥料にしたほどであったという。」〔郷土誌535頁〕

 以下、筆者が調査した伝承を報告する。

伝承1 郡地区・瀬谷集落

馬渡(まわたり)のおばさんが、イネボウ(担い棒)に籠を紐で吊るして、魚売りに来ていた。長崎集落(大字郡)からは、三太郎おじさんという人が、自転車にトロ箱を積んで、売りに来ていた。35年ぐらい前まで。山から馬車で木を製材所へ運ぶ「バシャヒキ」もいた。馬で引く。馬の操縦は右は「ミッ」、左は「ヒダイヒダイ」、進めは「ソッソッ」、止まれは「ダー」と合図する。」(Y.T.さん)

伝承2 御領地区・山下集落

「馬渡や石垣のほうから、朝7時位に魚売りが来た。イナイボウ(担い棒)の前後にテゴ(籠)を吊るして、それを担いできた。魚の種類は、サバ、イワシ、キビナゴなど。「イナイウイ(担い売り)」または「ダウイ」と呼ぶ。チキイ(天秤ばかり)で量り売りしていた。」(N.Tさん)

伝承3 別府地区・南大川集落

「母の時代には、イネボウにダウセテンゴを両側につけて、知覧、川辺まで売りに行っていた。米や野菜、カライモと交換することもあった。」(T.Yさん)

伝承4 別府地区・耳原下集落

「水成川からトワおばさんという魚売りが来ていた。魚売りのことをハッダウイという。秤で量って売っていた。戦後まで来ていた。」(M.F.さん)

伝承5 上別府地区・只角集落1

「イシカゲ(石垣)やミナイガワ(水成川)から、テンゴ(籠)を二つ下げた棒をイノウて(担って)、魚売りが来ていた。野菜(カボチャやナスなど)と交換することもあった。こちらからは、花や柴を売りに行った。薪は藁で作った縄で担った。女性の仕事で、藁縄は、ただ「ナワ」と呼んだ。男性は、肩にカタゲテ(乗せて)運ぶ。」(Y.N.さん)

伝承6 上別府地区・只角集落2

「戦後まで、石垣・水成川・大川のほうから、籠を両方につけた棒を担いで、魚売りが来ていた。顔見知りのおばさんが、アジやサバを持ってきた。「ブエン(無塩・鮮魚のこと)は、いらんかあ」と言ったりして、毎日のように朝7時か8時には来ていた。こちらから浜のほうには、荷馬車で薪、割木を出していた。木材は石垣から船で出していた。」(T.N.さん)

伝承7 上別府地区・加治佐(かじさ)集落

「石垣・水成川・大川から魚売りが来ていた。ソマ(蕎麦)や大豆と交換することもある。朝早く朝飯を食べるころ来る。みんなが仕事に出かける前に来た。取りあえず魚を置いていき、支払いは後からまとめてすることもあった。魚の種類はイカ、サバ、アジ、ウルメなど。「ブエンは要イもはんかー」「ウルメ売っとー、ウルメならカイメ」などと売り言葉を言っていた。ニナイボウ(担い棒)の前後にブイジョケを二つ下げていた。蓋はなかった。ブイジョケにはチキイを入れてあり、それで量り売りする。こちらからは、海のほうには墓柴を出す人がいた。竹細工職人はこちらにはいない。勝目(川辺町)から自転車で来ていた。頭上運搬は見たことはない。」(K.K.さん)

結び

 本稿では頴娃における陸上運搬・海上運搬の民具・民俗を、断片的ではあるが、調査した範囲で報告してきた。最後に魚売りについてもう一度整理し、結びとしたい。

@魚売りを指すダウイは「駄売り」の転訛であろうか(注1)。伝承の中では、「イナイウリ(担い売り)」「ハッダウイ」(注2)の名称も聞かれた。
A使用する道具は肩担い運搬具で、天秤棒の両端に籠を下げたもの。天秤ばかりを籠にいれている。
B網元から漁師に配当される当日朝に獲れた魚を、漁師の妻が傷まないうちに朝早くから知覧・川辺方面まで売り歩く。
C売り言葉には「ブエン(無塩・鮮魚)は要いもはんか」のほか、「ウルメ売っとー、ウルメならカイメ」などがあった。
D売り先には得意先があり、つけ払いにしたり、時には里山のものと交換することもあった。

 頴娃海村はかつて海運のムラとして、海を通して他地区からの産物を頴娃の里山に届ける集積地であった。昭和になり他地区との交易は下火になったものの、魚売りダウイは、海からの直接の恵みを、頴娃の里山、さらに知覧・川辺へと届け続けたのである。

 短期間の調査ではあったが、海村と里山の交易をダウイを通して垣間見ることができた。時間があれば、具体的な得意先の実態を、海村側でさらに調査してみたかった。また、魚売りはじめ、行商人たちが果たした文化交流の役割や、さらに海からの民俗伝播の問題(エイ語とも呼ばれる頴娃方言もその一つ)も今後の研究課題としたい。

 最後に、貴重な民具を拝見させていただいた各集落の皆さん、調査に御協力いただいた坂元恒太氏をはじめ南九州市教育委員会、文化財保護審議会委員の先生方に深く感謝申し上げたい。


〔注〕

1 『日本国語大辞典』(小学館)によれば、『駄売り』は「駄荷をそのままで売ること。馬につけた荷物を、そのまま卸し売りすること。またその人。駄卸(だおろ)し。」とある。しかし、頴娃では馬の荷を売ることではなく、魚売り・魚売りをする人の意味である。一方、同辞典の『駄』の項を引くと、語素として、「名詞の上に付いて、ねうちのないつまらないもの、粗悪なもの、の意を表わす。」とあり、駄菓子・駄作・駄句・駄弁を例示している。頴娃で用いられるダウイ(駄売り)も、安価で手に入る(しかし生活に欠かせない)魚の行商人を指す方言と言える。

2 ハッダウイは、八田網(イワシなどを捕る浮敷網)で獲れた魚を売るという意味であろうか。村田熙は『日本の民俗 鹿児島』「カカゲウイとカンメウイ」の項で、肝属郡東串良町柏原倉の下の行商人ダウイの事例をあげ「早朝に引き上げられてくる火を焚いて魚をよびょせてとる八田網などの魚をイネテゴに入れて、得意先を回る」〔115頁〕と記載している。

〔参考文献〕

井上賢一 1992 「海上運搬」(下野敏見編『知覧町民俗資料調査報告書(三)知覧町農漁村の民俗と技術伝承』61-79頁所収、知覧町教育委員会)
井上賢一 1995 「海運の伝承―鹿児島の船乗り・船主・運搬船―」(下野敏見編『民俗宗教と生活伝承―南九州フォークロア論集』253-294頁所収、岩田書院)
編集委員会編 1990 『頴娃町郷土誌改訂版』 頴娃町
村田熙 1975 『日本の民俗鹿児島』 第一法規出版

〔伝承者〕

郡地区 瀬谷集落  Y.T.さん(M) 昭和23年生まれ
御領地区 山下集落 N.Tさん(F) 82歳
別府地区 南大川集落 T.Yさん(F) 66歳
別府地区 耳原下集落 M.F.さん(F) 昭和3年生まれ
上別府地区 只角集落 Y.N.さん(F) 80歳
上別府地区 只角集落 T.N.さん(M) 昭和4年生まれ
上別府地区 加治佐集落 K.K.さん(M) 昭和17年生まれ

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