内山田上の伊勢講 宿移りが見られる伊勢講行事。| 伊勢講特集 < 2月伊勢講 < 加世田風物詩 < 南さつま半島文化|
●調査地
鹿児島県薩摩半島加世田市 内山田校区 内山田上地区 田之野・大野・西村 3集落合同行事
(かせだ うちやまだ うちやまだかみ たのの・おおの・にしむら)
●調査日
1995.1.11及び1998.1.11
●拙著「年中行事風土化の研究」(『鹿児島民具第12号』1996,鹿児島民具学会)発表資料を補訂
動画●1998年内山田上宿移り
(Windows Media Player)[動画ヘルプ]
新暦1月11日にオイセドンの祭りをする。高さ54センチメートル、幅46センチメートル木製祠。石とシベが入っている。鳥居には注連縄。
昭和44年まで一年交替で田之野(たのの)・大野・西村3集落(以上内山田上地区)の各家庭を持ち回りしていた。今は三つの公民舘で順番に祭っている。
田之野・大野・西村の人々。30年くらい前までは金気田平(かなきたびら集落)も加わっていた。
オイセコ委員:各集落1名の計3名で、2年交替。再選可能。お伊勢講の代表。
コウガシラ:宿となる集落の者が数名で勤める。その年の世話役。田之野は5名、西村2名、大野2名。
昔は、当たる可能性のある人(コウガシラ)はある程度決まっているので、そういった人達は、あらかじめ、当たってもよいように焼酎とデコン(大根)のなますなどの簡単な料理を用意しておく。オイセドンを送り出す家はお別れのための料理をする。ツケの人(知らせ役)の知らせが来ると、当たった家では近所の人が家で出来たものや正月の残り物をもって来てくれ、大慌てでカズノコや里芋のみそ煮込みなどを準備する。
今は、送り出す集落の公民舘で1時半から、各集落のオイセコ委員とその集落のコウガシラが準備を始める。3時までに公民舘の床(とこ)に祭ってあったオイセコのオミト(御御輿)と道具類を机の上に置く。料理は折り詰め弁当。迎え入れる集落でも来る時間に合わせて、ナマスなど簡単なものを用意しておく。
昔から講費を徴収していた。今は各戸百円。
コウガシラの中でくじを引いていた。例えば田之野は5つの組に分けて,それぞれの組みから輪番制で1人がコウガシラになる。その5名で盆の上においたモミフダで引いて宿を決めていた。
昔は、今年の家が決まると、ツケの人が「当たった、あたった」と知らせに来た。それから金や太鼓をたたきながら祠をその家まで運んで来た。
今は、午後3時にオミトに向かって礼拝して、送り出す集落のオイセコ委員のあいさつ・乾杯の後、会計報告、次回のコウガシラ及び委員の確認などをして帳簿に記入する。乾杯の際の焼酎は、昨年送り出されるとさに前の宿が入れたカンビン(白紙で栓をしてあるだけの徳利)から下がったお神酒。こちらが送り出すときにも同様にしてもって行く。〔写真〕
午後4時に公民舘を出発して各集落を回りながら1時間はどで次の集落公民飴へ到着する〔写真〕。@シビ、A鳥居型、Bオミト、C太鼓、Dカネ、E拍子木、Fお賽銭箱、G帳面箱、H洒桶、R講の人々の順。「ホーホイホーイ」と掛け声を掛けながら歩く。その声が小さいと、「オラベヨー(さけべよー)」などとお参りする人がけしかけたりする。踊りや化粧などはしないが、お伊勢様はにぎやかなのが好きな神様だという。
各集落の人は通りに出て待っており、お伊勢様を拝んでお賽銭を上げる〔写真〕。着いたところからは次の集落が責任をもつ。新しい宿となる公民館へは玄関ではなく,縁側から入る。
金気田平が入っていたころには、送って行って酔っ払い、暗い中を提灯の明かりで帰って来るので、たんぼに落ちたりして大変にぎやかだった。
昔はくじで当たった人が、家の床(とこ)で1年間神体をお祭りしていた。花や水を供える。オイセドンの世話をすることを「ハナコー(花香)をとる」という。
今は毎月第1日曜日にコウガシラの人が順番に柴を換えてお祭りする。
宿移りの@ちRのほか、Gの帳面箱に弘化4年以降の講帳類が入っている。〔史料写真〕
昔、皇大神宮にお参りに行くのが大変だから、みんなからお金を集めて代表が行っていたという。また、帳簿などを見ると、そのお金の残りを利用して助け合いのようなことをしていたのだろう。
縁起がよかったり悪かったりするので神体を預かることはあまり喜ばれなかった。持ち回りによって神様が自分の家に釆たときは、女性は家のソラ(二階)に上がっては行けないという。
8月の第4日曜にある「鳴石のガンガンドン祭り」も三部落順番で行い、お伊勢講が当たっていない集落がそれを主催する。