小松原の伊勢講 今も宿移りが見られる加世田市小松原の伊勢講|伊勢講特集 < 2月伊勢講 < 加世田風物詩 < 南さつま半島文化|
●調査地
鹿児島県薩摩半島加世田市 万世校区 小松原地区(かせだ・ばんせい・こまつばら)
●調査日
1994.2.11/1997.2.11/2001.2.11/2002.2.11
●伝承者
公民館長ほか参加者多数。
●未発表資料
動画●2002年小松原の伊勢講行事
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この地図の作成に当たっては,国土地理院長の承認を得て,同院発行の数値地図200000(地図画像),数値地図50000(地図画像),数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平16総使,第114号)
2月11日にオイセサアのお祭りをする。現在の講帳の表紙は,「平成○○年 お伊勢講・住吉講 客名簿 小松原公民館」となっており,伊勢講・住吉講両方を祭る行事。戦前は1月11日だった。現在の公民館のオミコシ(オズシ・ホコラともいう)は幅45センチ,高さ70センチ,奥行き35センチ。この祠(オミコシ)の中に,新しい皇大神宮のお札を入れ,御神体としている。祠は白木で作られている。しかし,持ち回りをしていたため,囲炉裏のすすで黒くなったという。お供え用のご飯や榊の水は,人の歩くところには捨てないようにしていたという。
オミコシは3組5つある。
@青年団の伊勢講(2つ。一対だという)
A青年団の住吉講(2つ。同上)
B公民館の伊勢講(1つ)
@Aを青年団がくじ引きで持ち回りしていた。しかし今は4つとも寄木八幡神社に納めている。Bは老人たちが別にやっていた伊勢講で,今は公民館の神棚に祭ってある。現在のお伊勢講の祭りは,公民館でBを祭り,八坂神社までクジであたった「太夫」が出向いて@Aを祀る。
昔は青年団全員の行事であった。男性だけで女性は参加しない。多いときには200人のくじ引きだった。今は集落全世帯に呼びかけているが,あまり集まらず,有志だけのお祭りのようになってしまった。2002年は19人が参加。
青年団は年齢別にクジ(籤)・ワキ(脇)・キャク(客)という3段階に分かれていて,3年で各役目が一回りする。クジ年齢の歳の人がくじ引きをする祭りの主役。ワキ年齢の人はその補佐役。キャク年齢の人は祭りを盛り上げる観客役。これが,順番に回ってくる。現在は参加者全員が「キャク」であり,「クジ」でもある。そして「ワキ」役は参加者のうち若手の務め。若い人の参加が少ないので,何年たってもワキ役の人もいる。もちろんこの人たちも「キャク」であり「クジ」でもある。
クジであたった人が「太夫」となり,集落の安全を祈り,1年間自宅でお祭りをした。ワキはくじ引き当日の料理その他の準備役である。
10:00 公民館に集合。男性だけによる準備。今は直会で「客」が食べる料理は仕出し弁当なので,お伊勢講の供物と「太夫」たちの料理だけを準備する。供物はダイコンを輪切りにして,さらに半月型にし,食紅で赤や黄の絵の具をつけて着色したもの。カマボコやタマゴヤキを模したもの。以前は本物のカマボコとタマゴヤキだった。また,くじに当たった「太夫」と補佐役の「引き手」に出す料理は,貝と餅の吸い物。海と山の幸をあらわしているという。公民館で食べる上記Bの伊勢講の直会用と,神社での@A用の2食分を作る。(実際には婦人たちが自宅で準備を手伝ったりもしているとのこと)。
オミコシは神棚から下ろされ,公民館の舞台に,講箱を敷いて,その上にすえられる。くじの紙縒りの準備や,オミコシの小さな注連縄づくりなどをする。クジは,「太夫」1本,「引き手」2本,ハズレは残りの人数分。9センチ四方の半紙を3回おり,1回ひねってある。「太夫」の当たりくじにはボールペンで小さく丸印をつけてある。「引き手」のあたりくじにはひし形印が切り抜いてある。昼食後いったん帰宅。
15:30 正面のオミコシの前に,コの字型に長机を並べ,両側の上座から年齢順にならんでいく。末席が一番若者。湯飲みなど仕上げの準備。
昔は2列で,住吉側と伊勢側に分かれて並んだ。上座に座る年長者は紋付はかまだったという。
〔2002.2.11ドキュメント〕
16:20 定刻の4時より20分遅れて公民館長あいさつ。
16:35 タイセンマワシ(会次第にもカタカナで書いてあり,はっきりした意味は分からないとのこと)。
互選によりタイセンマワシの係2人が選ばれ,オミコシの前で二礼二拍一礼。左右に分かれて,上座から順番にお猪口一杯ずつ生焼酎をついでいく。
17:00 くじびき。
二人の立会人を出し,お盆にあたりクジを入れてかき回す。当たりは「太夫」役1人,太夫の補佐をする「引き手」役2人。今は年齢の高い順に,参加者全員で引いていく。3年ごとの年齢階層はない。外れた人は口を尖らせてクジを吹き飛ばすような格好をする。参加者から「シオガミッタドー」という掛け声がかかる。潮が満ちた―当たりそうな,いい潮時が来た―という意味らしい。
17:30 直会@
太夫と引き手がそれぞれが決まると,太夫役に緑色の神職のような裃の衣装を着せる。この服は代々この祭りに伝わっているものだという。烏帽子をかぶせ,顔には墨を塗る。引き手には衣装は無い。
着替えが終わると,オミコシの前で3人並んで二礼二拍一礼。吸い物が3人に準備され,直会。他の人々はそれを見守っている。
17:45 宿移り・エビス参り。
引き手役2人が太夫役の脇を抱えて,3人並んで公民館を出発。掛け声は「オセコノ,マメコノ,エイエイポウ」(お伊勢講,参ろう,エイエイオウ)。くじに外れた人も全員,この後を行列を作って付いていく。公民館の祠はそのまま置いておく。伊勢講の宿移りではなく,太夫の宿移りである。
参加者全員でまずエビスに参る。エビスの隣の家からゴザを借りて,その上に太夫・引き手3名が座る。焼酎と模造のカマボコ・タマゴヤキをエビスの祠の前に供える。「公民館の繁栄と小松原の発展を願って・・・」などと言いながら,お供えのカマボコをエビスに投げる。
18:05 神社参拝・直会A
それから寄木八幡神社まで歩く。神社に着くと,神殿の扉を明ける。4つの祠(伊勢講1対・住吉講1対)はすでに拝殿に出してある。太夫・引き手のために2回目の直会の料理が準備される。「かんさあ,かんさあ,小松原が発展して,ワカイシが協力してくれますように・・・」などと言って,伊勢・住吉の祠と神殿に焼酎・カマボコを投げる。その後直会。食べるのは太夫・引き手のみ。周りの人はそれを見守っている。料理は貝と餅の吸い物。
18:30 再び公民館に戻り,改めて直会をする。
宿移りのときに,「道楽踊り(みちがくおどり)」をしていたという。ただし,実際に道中で踊ったことのある人はもういない。市制施行40周年や小学校の新築祝いなどのお祝い事があるときに,それを記念して踊ったりするだけになっている。男性30人が浴衣を着て女装する。一番初めに道払いが行く。それから三味線,太鼓,鉦,つづみなどの鳴り物を持った人々が2列になって続く。唄は無い。踊りを踊る。
家々を回っていたころは,祠は前の宿に置いたままで,青年団員全員が公民館に集まり,住吉側と伊勢講側に分かれて,二つのくじ引きをした。「太夫」「引き手」それぞれが決まると,太夫の家へ皆で移動。祠のほうは前の宿から「オカゴサン」というしっかりした若者が別に担いでくる。
以前は兎に角にぎやかな宿移りで,行列の途中,酔っ払って人の家に入ったり,大喧嘩になったりしたこともあったという。バスを止めたりすることもあった。女性は危なくて外出できないという。
お伊勢様はお願い事を何でも聞いてくれるので,「ヨメジョをもらえますように」と回りに聞こえるように大声で叫んだりもしていた。
当たった人は塩でお清めして,毎月シビ(御幣・シベ)を換え,自分の家で1年間お祭りした。月々のお祀りは,穢れるので人に見つかってはいけないという。
どこから伝わったかは分からない。ただ道楽踊りについては次のように聞いている。昔,皆がお伊勢様へお参りすることは難しかったので,代表が行って,お札をもらってきた。そのときの出迎えの踊りだといわれている。360年前からあると伝わっているという。
この公民館は大正時代,青年会館といって,当時5・6千円で造った。青年団は15歳から28歳までで,結婚してもその年齢まで入っていた。十五ニセというのが集金係で,よくガラれていた(しかられていた)。会があるときに召集して回るのも十五ニセ。1月7日がニセイリの日で,先輩の前に座らされて,自己紹介し,唄をうたわされる。