節 | 史料 | 注・固有名詞 | 頁 |
---|---|---|---|
1 山水 |
|||
1-1 |
坊津港〔地頭館の前にあり〕 坊津村にあり。名所方角集、唐港に作る。武備志、登壇必究、並に坊津に作る。海東諸国記房津に作る。今世上坊津と通称せり。当邑一条院は、往古上坊中坊下坊と号し、三所に坊舎を営み、三時上堂の軌則をなす。今に其地名残れり。坊津の名是に由て出つ。此地は、皇国の辺陲にして、直に絶域に対望するを以て、古昔漢土、及び海外諸蕃の徒通商互市する者、皆此津に輻湊す。故に唐港といへり。是故に当時は、 |
【坊津港】【坊津村】 |
26-1a |
市店檐を連ね、楼屋甍を比べ、人烟富庶なりしとかや。後世肥前長崎を以て、諸蕃の■場となししかば、自然と此港の繁華地を払って、終に粛然たる一漁村とはなりしなり。此地の総略、層岡畳山、三面に環り、其内に海湾ありて、港となる。港口は西に向ふ。東に入て、更に南に転り、下浜深浦の湾曲窮処に至て、十有二町。港口の濶さ、三町四十間余。港の周廻三十町余。港中海水の深さ、卅六尋より四十余尋に至る。港口窄狭にして、入遠く、中広く回岸連り抱きて、唯西一方を欠き、大瀛に接して、一の内海の如し。港の西に山 |
○檐(のき)=軒 |
26-1b |
|
の内湾曲許多あり。皆舟舶を停泊すべし。又寺ケ崎より、西南海口十町許に当り、東南岸に大巌あり。西北の海中に突出し、其西北に双剣石鵜嶼、接連して、横に海上を扞蔽す。鵜嶼の西北は、西尾觜と相対す。其間五六町許。是を港の外蔽とす。此外蔽の内、東南岸に湾曲許多あり。次に坊港の細状を記す。港内の東岸に山觜あり。鶴ケ崎といふ。港中へ鋭出すること一町許。觜端に祇園神社あり。素戔嗚命を祭る。祭祀六月十五日。山觜松樹鬱然として、桜樹頗る多し。此觜の海中に、石礁五十間許相連る。長礁といふ。潮涸る時のみ顕れ出。方角集に越潮と詠るは是なり。又山觜の方に、大巌あり。烏帽子礁といふ。潮満る時も隠れず。坊港、一名は舞鶴の浦と号す。長礁は鶴の觜にて、烏帽子礁は、鶴の烏帽子、西尾崎と、寺ケ崎とは、鶴の翼なりといへり。坊津八景中、鶴ケ崎暮雪是なり。〔一説に、鶴ケ崎は、鵜形ケ崎の事にて、此処に |
○許多(きょた):多数 |
26-2a |
|
図「坊津港〔自番所所見〕」 |
○自番所所見:番所より見るところ |
26-2b |
|
【キヲン】祇園 |
26-3a |
||
あらずといへり。然れとも此処烏帽子礁の名あれば、鶴ケ崎は、此地なるを必せり。〕 坊津旧跡記に、此港の形、梵字の |
○坊津旧跡記 |
26-3b |
|
頭の方一町許の所は、地形頓に狭く、其状
|
○頓に(とみに) |
26-4a |
|
此に略す。〕 興禅寺址の北に接して、山觜突出す。即ち前に所謂寺ケ崎なり。寺ケ崎皆石巖にて、其西面潮際に二間許の穴あり。その奥に観音の倒像あり。天然に彫刻せるが如し。是を下り観音と号す。寺ケ崎西南に小湾あり。湾口濶さ四町許。亀浦といふ。漁網に利ある所なりとぞ。即ち八景中亀浦帰帆是なり。亀浦の西に接して山觜あり。海中に突出す。寸々礼石觜といふ。其東北亀浦は、湾小く觜の長さ一町許。其西は湾大にして、觜の長さ五六町、寸々礼石の西面觜端に両石あり。長短相並ふ。合抱の形に似たり。因て夫婦石と名づく。寸々礼石觜の西なる大湾を、網代浦といふ。其陸を網代山といふ。湾の渚に蛭子堂あり。湾の西に双剣石、鵜嶼ありて、鵜嶼は寸々礼石觜と相並ぶ。湾の口濶さ四五町、入も寸々礼石觜の長さと同じ。湾内鉛錘魚等群魚の聚集せる所にして、常に魚人の利となる。山上 |
○所謂(いわゆる) |
26-4b |
|
に棚を設け、漁事に老たる者、棚に在て海を望み、群魚の湾に入るを見て、舟を列ね湾口を遮り網を湾内に下す。魚を得るころ甚多し。其魚事の状、此津の佳観なりとて、遊客の徒、必す勝を探るといふ。即八景中網代名照是なり。網代浦の西は、陸地より西北海中へ大巖突出すること三四十間、大巖を距ること二間許に、双剣石屹立。双剣石雌雄ありて、大なるは高さ十五間、周回二十間許。小きは高さ十二間、周回六七間。両石の間僅に人を通す。根太く頭尖り、宛然として両剣を立るが如し。因て双剣石と号す。唐土人名つけしといふ。両石の上、松樹生ず。此津の奇勝なり。或人題双剣石詩に、双剣雌雄石、時々生二紫烟一、豊城何用問、却在二海西天一。双剣石を去ること二間許にして、鵜嶼あり。鵜嶼周囲5町許、高さ四五十間。此嶼皆石鵜といへども、松樹茂生し、翠色海に映ず。潮退く時は、東南岸より双 |
○距る(へだてる) |
26-5a |
|
剣石までは、巖下に沿ひ、徒歩すべく、土人来て蛤貝の属を拾ふとぞ。潮満る時は、双剣石と、鵜嶼との間は、二端帆の舟経過さるとぞ。〔鵜嶼の西北は、即鵜形ケ崎なること、前文に見ゆ。〕 双剣石より西南の海中五町許に、栗子島あり。〔陸岸より一町許。〕 周廻八町許、高さ五六十間、松樹疎生。此嶼辺鰕魚の群衆する処にて、漁人常に網し餌に用ゆるとぞ。凡坊泊の地形は、沿海諸邑の地より、海上に鋭り出たるに、坊港東南の地、特に其西南海上に尖出すること数十町。其尖末を坊の御崎といふ。双剣石の後、大巖接壌の処より、御崎の方六町許に、高石神といへる一危巖あり。後の一面は陸巖に連り、三面は海水環抱す。高さ三十間、周廻二十間、海畔に孤高直立す。巖上一草木を生ぜず。其上には海鳥常に巣くひ、鳥糞着垂て粉白なり。其状甚奇なり。御崎の極端に、円形の洞孔あり。大さ二丈許。東北に透明す。是を望めは、宛も月輪の如 |
○蛤貝(はまぐり) |
26-5b |
|
し。天然の妙造にして、神工鬼鑿とも云べし。即八景中御崎秋月是なり。御崎の地形、皆奇巖怪石。垂畳堆積して、急涛奔浪、激怒奮撃して、沫を飛し、雪を散し、其勢甚壮烈なり。此処に |
【神工鬼鑿】鑿はノミ |
26-6a |
|
すべからず、実に海内無双の勝景にして、丹後の橋立、芸州の厳島、景勝の名を天下に著すといへども、坊津に及はざること遠し。港口の西は大瀛にして、漢土往古呉越の地。今の福建省浙江省の地最近く、其水程三百五十里許ありとかや。海中漢土の近き処に、三里許の暗礁あり。是 皇国と漢土分界の所なりといへり。往古此湊は、 皇国三津の一なり。三津とは、筑前博多、伊勢阿濃津、薩摩坊津とす。故に此港は往古漢土、及ひ諸蛮人湊泊するのみならず、 皇朝より遣唐使を遣さる時は、此港より開帆せること、多く国史に見えたり。其文挙るに遑あらず。 後堀川天皇の時、坊津の飯田備前、土佐の篠原孫右衛門、兵庫の辻村新兵衛、三人を鎌倉に召て、船法三十一ヶ条を定らる。されば此港は、唐土迄も聞え、武備志にも、津要有二三津一皆商船所レ聚、通海之口也、西海道有二坊津一、 |
○丹後の橋立:天の橋立 |
26-6b |
|
〔薩摩州所属。〕 |
○洞津:安濃津 |
26-7a |
【凡例】
「節」欄:検索の便を図るため、サイト運営者側で仮に付したものです。(原書にはありません)
「史料」欄:三国名勝図会和装本(明治38年刊)によります。掲載に当たり、次の処理を行いました。
@旧字体・異体字の漢字を、新字体に改めた。
A変体仮名は、通常の平仮名に改めた。
B読点「、」の一部を、文脈から判断して句点「。」に改めた。
C脚注は〔 〕内で記した。
「注・固有名詞」欄:広辞苑などを参考に分かりにくい熟語を概説し、固有名詞に見出しをつけた。
「頁」欄:和装本のページ。26-3bとは、三国名勝図会第26巻3頁裏面を示す。
【免責】
このページは、私自身が三国名勝図会を読む際に読みやすいようメモしたものです。校正も不十分で、記述の誤りがあるかもしれません。したがって、研究で引用される場合は、改めて原書に当られた方が確実です。
このページの利用にあたっては、何卒自己責任でお願いいたします。
次頁:坊津港(付記 - 坊津八景ほか)→