節 | 史料 | 注・固有名詞 | 頁 |
---|---|---|---|
5 旧跡 |
|||
5-1 |
近衛宅地〔即今地頭館の地。〕 坊津村にあり。文禄三年、四月、近衛左大臣藤公信輔、坊津に謫せらる。十五日、京師を発し、五月下旬、此処に至り給ふとぞ。初め豊太閤秀吉、微賤より出、姓氏詳ならず。故に自ら平民を冒す。或告て曰、八十の姓内、藤原氏最貴し。藤原氏に非ざれば、摂政関白に任ずることあたばず。於是豊公藤原氏を冒さんことを藤公に請う。藤公其微賤に出るを悪て是を聴さず。故に豊公是を憾む。其後事に託して 天朝に奏じ、藤公を坊津に配流せり。〔藤公の配流は、二説あり。其一説は藤公朝鮮に渡海せんこ |
【近衛宅地】 |
26-31b |
とを欲す。豊公大に以て不可とし、是を止め、遂に配流す。其一説は、関白秀次の謀反顕れし時、其ことに連り、配流せらるといへり。〕 藤公信尹、信基ともいふ。近衛家十八世、竜山公前久の男なり。〔竜山公、名は前久、関白に任す。天正三年、十二月、薩州に遊歴し、翌年八月帰京なり。往還共に出水路を通るといふ。〕 三藐院と号す。天正十三年左大臣に任ず。藤公配流せる時、建仁寺十如院にて、永雄和尚狂歌を詠す。〔松永貞徳が歌道戴恩記に出つ。〕 |
○天正三年:1575年 |
26-32a |
|
六日、坊津を発するの時、一乗院快忠法印詠す。 |
【快忠法印】一乗院第10世 |
26-32b |
|
令に備んとす。是に由て、禰寝山城坊が女年十八、婉娩貞静なり。宗家の右京重永が女と称して献ず。公是を寵し、帰洛の日、山城坊に茶器を賜ふ。女は公に従て上京す。後一女を生む。西洞院殿に嫁す。子なし。浪人村岡伊織、近衛家に出入す。後に藤公山城坊が女を賜ふ。男子を生む。新右衛門と称す。後新右衛門、母と共に薩州に来て、亀山忠辰家に寓す。忠辰新右衛門を川辺に居らしむ。〕 藤公坊津謫居の地を、土人近衛宅地と称す。天明中、謫居の旧跡に地頭館を建つ。〔地頭館、 |
○禰寝(ねじめ) |
26-33a |
|
○近衛藤 前文に出つ。 |
【近衛藤】 |
||
付記2 |
○白石紺珠 白石紺珠曰、油小路殿中将たりし時、 後光明院帝、ある時中将に、天子の御宝を御見せあるべきよし |
【白石紺珠】新井白石の著作 |
|
にて、檀紙にかきしもの。御棚より出して、見せ玉ふ。是豊臣太閤より奏書なり。端には関白従一位太政大臣豊臣の朝臣秀吉、誠惶状乞と書出したり。秀吉の真跡なり。偖その次は仮名にしてひろひ書なり。一近衛殿のことゝあり。近衛殿を薩州に配流ありたきとの事とぞ。但前房公の事なり。前房公をば、越前鎌倉関東の公方にすべしとて、小田原へ入られし時も、迎え申て御供なり。甲州没落の時も、信長御供なりしよしなりと云々。〔按ずるに近衛殿とあるを、前房公のことと、白石のいへるは、誤なるべし。近衛殿とは、信輔公の事なるべし。前房公は、信輔公の御父なり。〕 |
○檀紙(だんし):和紙の一種 |
26-33b |
|
付記3 |
○谷川士清説 谷川士清曰、秀吉遺言に、我死なば新八幡と祝ふべしと。然ども勅許なきによりて、旧臣等祠号を請て、豊国大明神と号られし。偖秀吉今迄なき氏になりて、先祖第一と仰れんと。菊亭右大臣と議して上奏し、豊臣朝臣といふ新 |
【谷川士清】江戸中期の国学者・神道家。号は淡斎。(1709〜1776) |
|
姓を勅許ありけり。関白宣下ありて、玖山聞しめし、此職は他家の補すべき謂なし。必氏神の明罰あるべきと仰られしが、果して秀次の謀反顕れし時、近衛殿は、薩摩の泊津、菊亭殿は信濃国へ配流なりし。其上御女一台殿、大路を渡され玉ひし。建仁寺の永雄和尚が、道すがら車にあらで大臣を、のする鹿児島荷ふ坊の津と、強化せしは、此時の事なりとぞ。さらば信輔公は、秀次の為に、秀吉に事あらんとするに坐し給へるにて、世に朝鮮に渡海し玉はんとあるに縁れりといふは、俗説なるべし。〔按ずるに、信輔公は秀次の為に、秀吉に事あらんとするに坐し玉へるにて、世に朝鮮に渡海し玉はんとあるに縁れりといふは、俗説なるべしと見得たるは誤ならん。其故は、秀次の謀反顕れしは、文禄四年、七月のことなり。信輔公の配流せられ、京都を発し玉へるうは、文禄三年、四月十五日なれば、謀反の顕れし前に当る。然れば信輔公の配流は、他の事なるを知るべし。〕 |
【泊津】 |
26-34a |
【免責】このページは、私自身が三国名勝図会を読む際に読みやすいようメモしたものです。校正も不十分で、記述の誤りがあるかもしれません。したがって、研究で引用される場合は、改めて原書に当られた方が確実です。このページの利用にあたっては、何卒自己責任でお願いいたします。
次頁:硯川ほか→