*南さつま歴史街道 - 名勝図会

三国名勝図会
第26巻 薩摩国川辺郡 (2)

薩摩国川辺郡 坊泊

坊津港の現景


史料 注・固有名詞

5 旧跡

5-2

硯川〔地頭館より一町半許。〕

坊津村一乗院大門の西南、三十間許海辺に

【硯川】
【坊津村】
【一乗院】

26-34a

下る路の左側にあり。窄き石罅より出る泉水あり。近衛関白信輔、硯水に用いられしより、此名を得たり。又一説に 大中公 貫明公御幼年の時、一乗院へ留止して、習学し給へる時、硯水に用いられし故に、此名ありといへり 慈眼公硯川の御詠歌あり。一乗院十二景岩間硯水とは是なり。
 硯川すみ色清き筆の水
  かきし出しを人にしらせん

○窄き:狭き
○石罅(せっか):石のわれめ
【近衛関白信輔】近衛信尹
【大中公】第16代島津貴久
【貫明公】第17代島津義久
【慈眼公】第19代島津家久

26-34b

5-3

大岳公行館跡〔地頭館より子方、十五町。〕

泊村海辺にあり 大岳公琉球を征伐し玉はんとて、泊津の行館にありて、遂に爰に薨じ玉へり。〔旧記に 大岳公遺命にて、加世田別府田間に葬る。〕 天文七年、四月十八日 大中公此館に光臨し玉ひ、駐留すること六日。一日は、一乗院へ詣て、幼年御習学の旧事などを談し玉ひ、一日は、坊津地頭上原長門守、其館にて饗を奉りしとぞ。又当

【大岳公行館跡】
【大岳公】島津忠国。島津氏第10代当主。(1403〜1470)
【泊村】
○爰に(ここに)
【加世田別府田間】
○天文七年:1538年
【上原長門守】坊津地頭

村の内茅野にも 大岳公行館の跡といへる処あり。石垣にて築き、方四尺、高さ三尺許あり。

【茅野】かやの

26-35a

5-4

栄松山興禅寺〔地頭館より南方、五町許。〕

坊津村にあり。田布施常珠寺の末にして、曹洞宗なりしが、今廃す。開山を孤山広照禅師といふ。〔何時代の人なるや、詳ならず。〕 当寺の由緒記を按ずるに、皇国に曹洞宗を伝えし始祖、道元禅師、求法の為に、入唐の時、坊津に来り。当寺に館して、爰より開帆す。時に道元禅師、京都建仁寺の明全和尚と共に、同行入唐の志にて、当寺に滞留し、船便を待つ。明全和尚たま■■病に罹り、当寺に於て遷化す。於是道元禅師独り当寺より発し、商船に乗りて宋地に至る。因て明全和尚は、当寺に葬り、今に其石塔なりとて、当寺境内の樹下にあり。香花を供す。其位牌も、当寺に安置す。本朝高僧伝、道元禅師の伝を按ずるに、道元は、初天台教を学ふ。疑義を建仁寺栄西禅

【栄松山興禅寺】
【坊津村】
【田布施】【常珠寺】
■■(くの字点):繰り返し符号。ここでは「たまたま」
○遷化:高僧の死去

師に問ふ。栄西法器とす。道元遂に師とし事ふ。栄西遷化の後、明全禅師に事へて、六寒暑を経歴す。貞応二年、明全に随て宋に入る。明州の界に達す。〔寧宗嘉定十六年。〕 明年曹洞宗の名衲、天童如浄禅師に謁して、参学し、必要を印可す。随侍すること四歳、悉く曹洞宗の秘訣を受く。安貞五年、〔宋宝慶丁亥年。〕 商船に駕して帰り、筑前大宰府に着く。京城に入り、建仁に寓す。寺を京南の深草に建て、興聖宝林寺といふ。北条時頼聘請して、弟子の礼を執り、招くに名藍を以てすれ共就かす。越前に精舎を構て居る。永平寺といふ。時に道俗帰する者市の如し。  後嵯峨上皇、紫方袍、並に禅師号を賜ふ。建長五年、京師に遷化す。〔時に年五十四歳、荼毘して遺骨を永平寺に収む。〕 嗣法の高弟を、孤雲懐奘といふ。〔本伝甚長し。今其大略を記す。又按ずるに、皇国に禅宗二派あり。臨済宗は、栄西禅師を始祖とす。栄西は、仁安三年入唐し、臨済の禅法を虚庵敞禅師に受く。建仁二年帰り、京都建仁寺開山となる。建保元年遷化す。曹洞宗伝法の始祖は、即道元禅師にて、其事跡本文の

○法器:仏法を受けるに足る素質をもつ人
○事ふ(つかふ):仕える
○貞応二年:1223年
○寧宗:南宋第4代皇帝
○嘉定十三年:1223年(南宋の元号)
○名衲:名僧
○安貞五年(宋宝慶丁亥年):安貞は1227〜1229年の日本の元号。安貞5年は存在しない。宝慶は1225〜1227年の中国宋の元号。宝慶のうち丁亥は、宝慶3年(1227年)にあたる
○後嵯峨天皇:第88代天皇。(在位1242〜1246。のち上皇・法皇〜1272)
○方袍:袈裟(けさ)
○建長五年:1253年
○嗣法:師から弟子へと正しい教えを受け継ぐこと
○仁安三年:1168年
○建仁二年:1202年
○建保元年:1213年

26-35b

如し。〕 又建仁寺明全伝に、栄西に参学し、必要を伝ふ。又戒律を著くして、威儀永雪のごとし。栄西遷化の後、建仁に住すること僅に八ケ月、貞応二年、道元を誘て海に航して、宋に入る。諸老の門に歴遊す。天堂山に登て、先師栄西堂を拝す。〔栄西禅法を、天童山虚庵禅師に受て、帰るの後、皇国より材木を天童山贈る。仏宇を新建す。其故に天童山に栄西の祠堂あり。石碑を建て、其ことを記す。隣交徴書に其文を載す。〕 其忌日に値て、楮券千緡を損て、大会斎を設け、山中の衆に供す。居ること三年にして、了然斎に化す。火浴舎利を流すこと算ることなし。道元嚢に齎して本邦に帰ると。今此文に拠て考るに、高僧伝には、道元入唐の時、開帆の地と記さずといへども往古入唐の徒は、坊津に由ること多ければ、当寺記録に見えたる、道元の舟路、爰より発せるは、盖実説なり。道元の伝法以来、洞家の宗旨天下に(アマネ)し、其始祖の事縁、当寺にあるは、奇跡といふべし。然るに当寺の記録に

○齎して(もたらして)
○盖:けだし。思うに。

26-36a

は、明全和尚は坊津にて遷化し、且石塔も存ずとす。高僧伝は、道元師と共に入唐し、唐土に遷化すとして、其説同しからず。然れども高僧伝に、明全の事跡を載ること詳なれば、其説を正とすべし。当寺明全の石塔は、留止の事縁に因て、後来建しにや。其詳なること知るべからず。又当寺の廃せるは、近来の事にて、今に寺地、及び古墳墓多く残れり。又邇年迄は、寺跡に観音堂一宇ありしに、今廃して、観音は当邑広大寺に安置す。往時の観音堂は、四間四面の唐戸、設色(サイシキ)材木都て唐木なりしとぞ。坊津は、往古船の輻輳せし処なる故、此寺唐客の香花院にて、此堂も唐客の建立なりしか、此堂虫蠧にて破壊し、邇年迄ありし堂は、享保中住持達道が時に、坊津の商人新建なりしといふ。此観音大士は、正観音にて、定朝作なり。木座像、高さ一尺二寸、非常の霊像にて、祈るに応ぜざることなし。故に

○邇年(じねん):近年
【観音堂】興禅寺観音堂
広大寺
○輻輳:方々から集まること
○蠧:虫が食う。むしばむ
○享保:1716〜1735年の元号

26-36b

海上安穏の鎮符を出せり。往古坊津の住人飯田備前、船法のことにて、鎌倉より召れし時も、屡観音の霊夢を蒙りしとかや。寺内許多の什宝ありしが、或は官府に蔵まり、或は常珠寺にあり。当寺はかゝる縁故の寺院なる故を以て上人等再興の志ありといふ。当寺の旧記、常珠寺にあり。其旧記に本づき、其諸書を考て是に録す。

【飯田備前】廻船式目の編者の一人と伝わる
○屡(しばしば)
○許多:多数。あまた
○什宝:宝物として秘蔵する器物
【常珠寺】南さつま市金峰町

26-37a

付記1

観音堂跡

前文に出つ。

【観音堂跡】

【免責】このページは、私自身が三国名勝図会を読む際に読みやすいようメモしたものです。校正も不十分で、記述の誤りがあるかもしれません。したがって、研究で引用される場合は、改めて原書に当られた方が確実です。このページの利用にあたっては、何卒自己責任でお願いいたします。

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