甑島調査日誌(上甑) はじめに / 平良 / 小島 / 瀬上 / 桑之浦・中甑・まとめ |鹿児島の民俗 < 南さつま半島文化|
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●村落伝承から
○ユリの生産と出荷
平良は甑島でユリの出荷がもっとも多いところだった。集落総出で12月から1月にかけて山焼きをする。山は西と東に分けて1年ごとに焼いていく。2月ごろ焼いた山に自然にユリの芽が出てくる。11月のはじめに集落総出で採集して出荷した。各自がとる場所は特に決まっていない。集落共有林で,今は村有林になっている。オランダかどこか外国へ球根を売っていたらしい。
1回掘っては運び,2回掘ってまた出す。量に達すればその日の収穫は終わり。1世帯2人くらいが行っていた。1日に一人カマスで3袋収穫する。
山へ丘から行く人は1時間半かけて通う。船で通う人は浜へつけてすぐに山へ上がれる。カリコ(爪があるもの)でおろした。
○ユリの食べる
終戦当時,食料難で1年間ユリを食べて過ごした。椿油でユリの根を焼いて,塩をつけて食べる。塩は海水を30センチくらいの鍋で何回か炊いて作った。椿油は絞る職人がいたので,そこへ椿を持っていくと,その分量に応じて作り置きの油をくれる。
○架橋
昔は病院へ行くにも役場へ行くにも,村営の定期船を使っていた。今は1軒に1台は車を持っていて,何につけても大変便利になった。
●交流伝承から
○飼い付け漁の盛衰
平良では自分が最初に飼い付け漁を始めた。自分は27・8歳のころから漁師を始めたが,30歳の時,漁師を続けていくなら飼い付け漁だと思い立ち,1年間天草の牛深に行って修行をした。そのときは宇治群島や草垣島まで行って漁をした。
天草から帰って,H.H.さんと二人で平良でブリ・ヒラマサの飼い付け漁を始めた。さらにI.H.さんなども加わった。最初のころは良く釣れて嬉しかった。船は漁協のものを借りてやる。漁期にはふだん一本釣りに使っている自分の船は遊ばせて,飼い付け漁に専念する。昭和30年代は7・8人で共同船を借りて漁をしていた。昭和40年〜50年代には一番多いときで12・3人でやっていた。15・6トンの平良丸という漁協の船を有志(振興会)で借りて,共同船として漁をしていた。
7・8年位前から取れなくなって,今は弟が一人でしている。
○飼い付け漁の漁法・漁場
9月1日から12月31日までが漁期。その他の期間は漁をしてはいけない。
漁法は,笠沙の野間池などでやっているのと同じ方法。
漁労長というのが一人決まっている。
飼い付け漁は鹿島村にもある。
○漁船
平良ではすべてサツマ型の船だった。こぎ舟ばかりで帆掛け舟はない。天草で見る鼻の丸いのもなかった。
大きいものでは,大敷網の船が8丁艪だった。大敷網は漁協でしていた。
○船幽霊
トシノバン(大晦日)は「モーレン船」が出てくるので,沖に出てはいけないと言われている。この日,モーレンは灯をいっぱい灯して自分の船に向けてまっしぐらにやってくる。危ないと思ってよけると,見えなくなる。しばらくするとまた表れる。さらに港に帰って振り返ると消えている。
また,エナワ(アカトリ)を貸せといって,モーレン船がやってくるという。底をホガして(穴を開けて)渡さないと,それで自分の船に水を入れられて沈められるといわれていた。
○雲
チョタログモ(鉄床雲)が江石の山に出ると雨。
下の小田山のハエン風(南風)は雨。
○風
北風 | キタ | 北北東 | ウシギタ | 南南西 | ハエオクバエ |
東風 | コチ | 北東 | キタゴチ | 南西 | オクバエ |
南風 | ハエ | 南東 | オシヤナ | 西南西 | オクバエニシ |
西風 | ニシ | 北西 | アナゼ |
2月ごろ黄砂が来て西風が吹く。スボイニシという。台風はウカゼという。10月ごろサーイニシ(下がり西)という西風が吹き,天気が良い。10・11月ごろアオギタといって,北風が強い。12月から1月にはアナゼの季節風が吹く。
○綱引き
綱は,丈夫なかずらで直径30センチくらいの芯を作り,それとあわせ4本のかずらを一本によっていく。直径1メートルくらいになる。かずらは女性も取りに行く。行かないと罰金を払う。
綱引きは,西側に男,東側に女と別れて引き合う。けんかになってけが人が出てもとがなし(おとがめなし)という。
相撲はやらない。綱引きだけである。
●交流・物流伝承から
○イサバ船
運搬用の船のことをイサバという。天草のほうからいろいろなものをつんで,各港を回り,品物を売りさばいていた。瀬戸物が多かったように思う。他には反物や,福岡の柳川や大川から家具なども持ってきた。港に入ると品物を荷揚げして販売する。特に来る日にちは決まっていなかった。春と秋に1回ずつぐらい。戦後が一番多く,昭和40年くらいまでは来ていた。
昔はエンジンと帆と両方ある機帆船だった。一番前に三角の帆があり,その後ろに帆が2本あったように思う。
動力船では,こちらにも30年代に運搬船を持っていた人がいて,川内や出水から雑貨や米などを商店へ運んでいた。J.Kさんの現光丸という20トンくらいの船を覚えている。
○鮮魚船
終戦当時は,天草から鮮魚船が平良にも来て,値段を即決で決めて魚を牛深や阿久根へ持っていった。現在は漁業組合で串木野の島平や鹿児島の漁連へ共同出荷している。
○お茶売り
昔は知覧から大きな袋を担いでお茶売りが来ていた。「お茶はいやらんどかい」という売り声だった。島の店で買うお茶よりおいしかったので,よく買っていた。宿に品物を別送して,島内を歩いていたのだろう。
○薬売り
富山のイレグスリという。置き薬のこと。昔から2軒くらいが平良にも来ていた。今も熱さましや腹下しの薬は,イレグスリを使い重宝している。今は鹿児島から来ている。
○商人宿
旅館(民宿)は平良にもあり,商人もこれを利用している。以前は知人に泊めてもらったりもしたようだが,はっきりは知らない。
○移動販売車
野菜や果物を売りに移動販売車が串木野から来る。金物屋,研ぎ屋,物干し竿屋も車で年に数回回ってくる。
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