上甑島調査日誌 はじめに / 平良 / 小島 / 瀬上 / 桑之浦・中甑・まとめ |鹿児島の民俗 < 南さつま半島文化|
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●村落伝承から
○峠
峠をダンという。小島峠もナカコシキノダンと呼んだ。
●交流伝承から
○漁
対馬まで漁に行っていた。
●交通・物流伝承から
○イサバ
ハンズ・水がめ・陶器を積んで天草・本渡のほうからイサバという船が入っていた。帆が2本ぐらいある帆船。中国の船のような形だった。瀬上で荷揚げをして,品物を売りさばいていた。こちらから何か積み出すことをしていたかどうかは知らない。
写真:クズダナシの背広(瀬上にて)
●交流伝承から
○漁業暦正月から4月まで | クロイオのタテアミ漁 |
5月〜ナガシ(梅雨)前まで | ムタサキウニのカツギ(素もぐり)漁 |
ナガシから9月末まで | アカイカの一本釣り |
9月14日から1週間 | アワビのカツギ漁 |
9月から12月 | クロイオのタテアミ漁 |
12月20日頃から30日まで | ナマコ漁 |
○ナマコ生態
ナマコ池のナマコは赤ナマコ。大きいものは17・8センチもある。普通は7・8センチ。ナマコ池が台風で岸が切れたときは,潮の加減なのか大変大きくなったことがあった。
ナマコは寒くなったら岸に来る。暖かいころは深いところにいる。
内臓の中は泥しか入っていない。
○ナマコ漁
口開けは12月20日ごろ。30日までやる。3月15日までが猟期。口開けの初日が一番たくさん取れて,だんだん取れなくなる。
以前は8人ぐらいで取っていた。今は5人。2つの網でナマコを取る。網目は2寸くらいのもの。前の網でナマコを浮かして,後ろの網で取る。
ナマコ池は石垣を彫って活かしておき,次の日に出荷する。
○ナマコ加工・販売
昔は1斗缶で10缶取れたこともある。1缶に200キロ。1万1,000円で売れる。そのうち千円は漁業権を持っている区に出す。昔は個人で業者に1斗缶で出していた。今は区でまとめて鮮魚扱いで取引する。昔はワタを取って加工して出していた。中は塩辛にしていたが,今は量が少ないのでそこまではできない。身を煮て,乾燥させて出す。乾燥させると小指ぐらいになる。1キロが100グラムになる。
○ナマコ池
岸が切れたときにはいろんな魚が入ってくる。ブリ・タイ・ミズイカなど。タテアミで7,8キロのタイも取れる。
ナマコ池の漁業権は区が持っている。釣りはしてもかまわない。
船は5メートル×1メートルくらいの手作りの木船を使っている。
ボラが取れたころは水面が真っ黒になるぐらい取れた。5年くらい前の話。
●交流伝承から
○素もぐり
カツギという。アワビ・魚・海草(テングサ・ノリ)を取る。
アワビオコシという道具を使う。ゴッスンという短いのと長いもの2つを持っていく。
昔は瀬上にも鍛冶屋があったが,今は中甑の加治屋に作らせたもの。さらにステンレス製になってきた。
○モレ
自分が櫓をこいでいて,急にそれが重くなる場所がある。問題の多い場所。漁は良く出来るが,櫓の上に人間の形のものがいて幽霊だという。モレと呼ぶ。
○禁忌
四足を乗せてはいけない。
沖に酢は持っていってはいけない。みかんもよくない。
金物を海に落としてはいけない。錨をおろすとき。
○カゼグサ
節がある草で,その節の数でその年の台風の数を占う。
○イサバ
柳川から肥前瓦・仏壇・家具を積んできた。大正頃までは茅葺や藁葺きの屋根だったのが,イサバで運んだ瓦で瓦葺に変わっていった。
瀬上に問屋があって,注文を取って運ぶ。瀬上は川湊になっていて,船が直接入ってきた。「西村」という店が問屋。中甑と平良にも降ろす。
天草の荒口というところからきていた。ハンズを積んでいたのはしらない。
自分の家もイサバをやっていて,船は金毘羅丸という一人乗り,3つ帆の帆船があった。後に小さな3トン〜5トンくらいの船でやっていた。
○市場
阿久根には瀬物,牛深・水俣にはイセエビを出す。串木野はイサキが取れだしてからは瀬物はあまりよくない。
○薬売り
トキワベニという薬やが来ていた。チンドンヤ。富山のイレツケ薬が多い。長崎からも着ていた。
○活動写真・浪花節
小学生のころ,年に2,3回来ていた。個人の家に泊まる。大きな家に泊まる。一回来たら知り合いになっていた。
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