下甑島の農具と農耕伝承- 2002年鹿児島民具学会甑島(下甑)調査のレポート。 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
●調査日:1995年8月,2002年7月,2003年7月
●調査地:鹿児島県薩摩郡下甑村手打・瀬々野浦(しもこしきそん・てうち・せせのうら)
●初出:『鹿児島民具第16号―下甑島特集号―』,鹿児島民具学会,2003年,52〜64頁。
1995年8月,2002年7月,2003年7月の三度にわたり,下甑村(しもこしきそん)の手打集落(てうち)と瀬々野浦集落(せせのうら)で農具その他の調査を行った。いずれも稲刈りのころで,農家は多忙な時期であった。
ここでは,二集落の稲作を中心とした若干の聞き書きと,下甑村歴史民俗資料館所蔵民具を紹介することにする。
○田起こし 苗床を作り,田んぼのほうは牛にトコ(犂)を引かせて起こす。鋤いたあと,牛にモーガ(馬鍬)を引かせて土をならす。トコは農協で注文して,内地から取り寄せる。
○田植え 6月ごろ女性を雇って植えてもらう。男の子が田んぼの両方から縄をひっぱる。縄にはしるしがしてある。田植えには掛け合いの歌があり,女性が歌っていた。
田植えから1月ほど経ち,稲が30センチくらいになると,タグルマで除草し,コムシという虫が稲についているのでアブラサシで防虫する。これを2回くらい行う。アブラサシは竹筒の底に穴を開けたもので,漁船の廃油などを田に垂らした。これで油を撒き,子供が竹のササラ(笹)でひとところにたまらないようにならしていった。稲には葉が腐るモンガレという病気もある。
刈り入れの鎌は加世田鎌を使った。昔は加世田から売りに来ていた。鍬も加世田のもの。鍛冶屋は手打にもあったが,修理をしてもらう程度。稲を干して,分解して田んぼに持っていったセンバで籾を取っていた。トウラ(叺)で家に持って帰り,杵でついて,箕で米と籾に分ける。口笛を吹くと風が起こるといって,口笛を吹いたりしていた。
○馬 牛は昭和32,33年ころ導入されたもので,それまでは馬を使っていた。馬は島津の代からの名産で,農耕用にも地元の馬を用いた。以前は浜で馬を運動させる風景をよく見かけた。山に薪を取りに行くときも運搬用に馬を使った。
○苗代 3月末から4月の始めごろ自分で苗を作る。
○田起こし まず牛に犂をつけて起こし,モーガで田の縁から満遍なくヨム。牛は戦後になって導入されたもので,それまでは馬を使った。牛は小回りが利かない。牛の動かし方は,ホイホイというと進め,ダーというと止まれという命令だった。馬を動かすのはハナドリという役目があり,2人で操った。
○田植え 順番に手伝っていた。田植えも終わり,芋植えもすんだ7月15日ごろサナブイという飲み会をする。スシ(まぜごはん)を振舞ったりする。
タグルマとガンズメで除草する。また,竹筒の底(節の部分)に穴を開けた道具に廃油を入れ,田にたらして防虫していた。
○刈り入れ 稲刈りは10月ごろ。
その他の伝承
○鍛冶屋 鍛冶屋は手打にもあった。
○正月準備 12月28日ごろから正月の準備をはじめる。
○大晦日 大晦日には蓑を着て面を被ったトシドンさまが来る。小さな子供たちのしつけの意味がある。あらかじめ親がトシドンに扮する青年に,子供へ注意してほしいことや最近の悪さを伝えておく。当時はトシドンが何も知らない子供たちを恐ろしい形相で諭す。トシドンモチという大きな餅を,子供の背中に乗せる。子供はトシドンは何でも知っていると思い,行いを正すことを誓う。普段から「言うことを聞かないとトシドンにしかられるぞ」などとしつける。
○正月 門松は,松,竹,笹を白砂に立て,根元は割り木を三本揃えて飾る。正月は宮参りやお寺参り,親戚への挨拶などをする。
○七日節句 1月7日のナヌカ節句には子供たちが郷ごとに浜でほら貝を吹き,門松などを焼く。ブーゲーゼク(法螺貝節句)とも呼ぶ。
○鏡開き 1月11日ごろ床の餅を下げる。
○三月の節句 3月3日には,子供のころは「セク(節句)が来た」と喜び,ご馳走やボタモチを作ってお重に詰め,山や磯へ出向き,一日中遊んでいた。
○花祭り 4月8日の花祭りには,その年1年間に生まれた子供のお祝いがあり,お寺から数珠が配られる。お釈迦様の誕生日。
○五月の節句 5月5日の節句にはマキを作る。男の子はそれを食べ,凧を上げる。マキはアクマキのことで,昔は竹の皮で包んだものを七島藺で縛っていた。西南の役でご飯が持っていけないので,保存が利くマキを持っていたという。
○七夕 7月7日の七夕には,笹の葉に願い事を書いた色紙をつけて立てた。処分方法は特に決まっておらず,色紙が落ちるころまでそのまま飾っておく。
○盆 月遅れで新8月14日から16日までお盆。8月10日ぐらいに墓掃除をする。初盆の家は12日から提灯を灯し,16日に送り火を焚く。手打でも精霊流しがあったらしいが,自分たちはしたことがない。盆には新しい草履を作ってもらった思い出がある。お盆には盆踊りをする。
○八朔 旧暦8月1日の八朔には,女の子がお釜と材料を山に持っていき,料理を作って楽しんだ。子供の料理の勉強会のようなもの。男の子はこのころから十五夜相撲の稽古を始め,綱引きの藁を各世帯から一把ずつ集めて回る。
○十五夜 旧暦8月15日は,朝から相撲を取り,夜は集落総出で綱引きをする。浜でする。郷ごとにある。
○種籾 秋の刈り入れ後,種籾は種で天日に干し,カマゲ(叺)に入れて,中二階に上げていた。下から囲炉裏の火で乾燥する。稲の種類は,戦前・戦中は晩生のササ(11月ごろまでかかった)や普通作のアサヒ,戦後は普通作の農林29号など。今はコシヒカリやワセモチを作る。
○灌漑 3月ごろエッチュウグワ(平鍬)を使ってアゼヌリをする。
○塩水選 3月22,23日ごろ,潮水を汲んできて塩水選をする。たらいの中に種籾を入れると,種にならないものは浮いてくる。10分の1くらい。10日漬けると芽が出る。
○苗代準備 稲刈り後に蒔いたレンゲソウが4月になると紫の花をつける。これを緑肥にするには,田に水を入れてレンゲソウを足で踏み,2,3日そのままにして腐らせ,もう一度踏んで手でなでる。種を蒔いたあと,水が冷たいので35日から50日間くらい置いておく。芽が出てくると稲の根付きがよいように,4回水を入れ替えて田を干す。防鳥網をかぶせる。今年はガンが5月ごろ来た。カモやシラサギも飛んできて,苗を踏んでつぶしてしまう。
○田起こし 自分が小さいころは馬を使っていた。馬に代わって牛を使うようになる。それから現在は耕運機。
まずトコ(犂)とエッチュウグワ(平鍬)で起こした後,モガ(馬鍬)を馬に引かせてヨム(代掻きをする)。トコ・モガを使うのは男性の役目であった。右回りに渦巻き状に耕していく。牛は穴が開いたら近寄らない。水は川水を使った。ゴートから井手がついていて,田の1枚1枚に上から順番に落としていく。
○牛の操縦 牛を動かす合図には,「べべべべ」…こちらに来い,「オー」…止まれ,「コー」…右へ回れ,「ヒダヒダ」…左へ回れなどがある。牛にはオモテという制御具を付け,カズラで作ったハナグイをつける。ハナグイは牛が小さいうちにヤマタケを鼻に刺して穴を開ける。自分でやると牛が向かってくるので,人に頼んで開けてもらっていた。ハナグイに使うカズラはハナグイカズラと言い,取ってくるとすぐに皮を剥いて炊き,三つ編みにする。何本も蓄えておく。
○田植え 苗床の網をはずして2人で苗を取る。昔は20人に加勢をもらって半日がかりで田植えをしていた。新暦5月末ごろ(晩生)。田植えの日は,朝4時ごろからヤマゴヤ(作業小屋)に行って,火をおこし,6時ごろ田んぼに行って,みんなで朝ごはんを食べた。田んぼのほうでつわの葉を皿代わりにして,きな粉餅を振舞ったりもした。手伝ってもらった人には新米ができたときに配る。田植え綱は自分のころはナイロンの紐を使っていた。
除草はテオシグルマ(田車)で一回やり,後は手で取る。ウンカのことをサベと呼び,その防虫には田植えから20日後ぐらいにEPN乳剤を1000倍に薄めて噴霧器で撒く。8月末からカチスズメというアジロのような芽が白くて四角い夫婦鳥がよく飛んでくる。9月の末からは取りよけに空のドラム缶をしょっちゅう叩いて鳥を驚かす。案山子も一つ,二つ立てるが,あまり効果がない。
○収穫 新暦9月末から10月始めごろに刈り入れをする。鎌で一株ずつ茎ごと刈る。収穫のときは加勢は頼まず,家族だけでする。
○乾燥 藁を乾す方法には,ジボシとツリボシがある。ジボシ(地干し)は地面に1株ずつそのまま積み上げ,夜は苫を上から掛ける。ツリボシ(稲掛け)は3本の木で足を組み,両方の足に竹を渡したもの。天気が良いと,次の日の夕方までには取り込める。天候次第では4,5日かかる。
○脱穀 足ふみ脱穀機で脱穀したあと,モミユイ(籾通し)でゆすって,トウミ(唐箕)で米と籾殻に分ける。そして袋詰めする。昔はカマゲ(叺)につめていた。
○儀礼 虫送り・サノボリ・田の神祭り・豊祭・収穫祭,ずべてなし。
○博労 バクユと呼ぶ。手打で3月,7月,11月に競りがあり,川内や上甑からもバクユが来ていた。ここには川内のバクユが来る。子牛を籠に入れてつれてくる。
○道路 船の着く青瀬に行くには,夜中の12時ごろ瀬々野浦を出て,3,4時間かけて山道を越えて行った。今往診の先生の句を刻んだ「蜃気楼の碑」が立っている。また片野浦から手打に出る手打道というのもあった。
○俗信(狸) 片野浦で知り合いと飲んで,夜の9時ごろ出た人が,朝方になってようやく瀬々野浦にたどり着いた。狸に化かされたのだろうという。
○マムシ マムシに咬まれるのは日ごろの行いが悪いからだという。マムシの匂いは,ジャガイモの皮を剥いたような匂い,あるいはゴキブリをつぶしたときの匂いに似ている。今年は2匹殺した。多いときには1年に8匹のマムシに出会ったこともあった。
○開拓伝説 瀬々野浦は平家のオチノヒト(落人)の集落だともいわれている。宮野・山下・中村というのが瀬々野浦に昔からある苗字で,その他の名前の人は後から入ってきた。
○電気・水道 昭和6年に電気がついた。昭和48年に簡易水道ができた。それまでは地下水の湧き水を飲んでいた。的場川・穴川・ツンブー川という3つの湧き水がある。燃料は今はプロパンガスがあるが,それまでは薪。
○イサバ 商売人の船のことで,瀬々野浦にも3人くらい船主があった。漁はしなかった。こちらから木炭を積んでいって,肥前瓦や肥前瓶,大川の家具などを積んでくる。注文しておいて雑貨なども取り寄せられた。自分の家の屋根瓦もイサバで昭和3年に運んできたものを葺いている。船には3枚ぐらいの帆が係っていた。
○船幽霊 夜釣りに行っていて,誰かに「おい,連れけ来たど,船に乗れ」と言われたら,まず釣竿でオモテのところを叩いてみる。普通はゴツンと音がするが,もし船幽霊ならばチャポンという音がする。
下甑村歴史民俗資料館は,手打集落の麓地区(武家屋敷群)の中央部にある。武家門をくぐりぬけ敷地に入ると,右手前に旧家を移転した屋外展示場があり,その奥に2階建ての資料館がある。館内は1階に民具展示室,2階に歴史資料などが展示されている。民具展示室には多くの資料が農業・山の仕事・漁業・衣食住などに分類されて展示されている。下甑の観光拠点であるとともに,小さいながらも研究者も活用できる資料館になっている。
そのうち農具を計測・撮影し,耕作→管理→収穫調整に分類したものが,別掲の図である。計測にもれたものに鎌や唐箕,足ふみ脱穀機なども展示されていた。
甑島に独特な民具として,脱穀棒「サシ」がある。展示されているサシは,下甑村長浜集落の方から寄贈されたもので,長さ120センチメートル,幅11センチメートル,奥行き10センチメートルの堅木製のものであった。歯の部分は4本の溝があり,これで穀物を脱穀する。説明版によれば,「千歯や脱穀機で脱穀したものを更に細かく脱穀するのに用いた」とある。
今回は聞き書きと民具計測の作業を行ったが,その相関が不十分な調査であった。そのことを反省しながら下甑における稲作農具を一覧化して,不十分なレポートを閉じることにしたい。
耕作の農具 | 灌漑:エッチュウグワ(平鍬) ↓ 苗代:盥(塩水選用)・防鳥網 ↓ 田起こし:トコ(犂)・モーガ(馬鍬)・エッチュウグワ ↓ 田植え:田植え綱 |
管理の農具 | ↓ 除草:田車・鳫爪 防虫:アブラサシ(竹筒)・笹(油をならす)・噴霧器 ↓ 防鳥:案山子・ドラム缶(鳥脅し用) ↓ |
収穫・調整の農具 | 収穫:鎌・つり干し棒 ↓ 脱穀:センバ(千歯こぎ)・杵・サシ(脱穀棒)・足踏み脱穀機 ↓ 調整:モミユイ(とおし)・唐箕・箕・カマゲ(叺) |
付記
調査にあたり下甑村教育委員会の先生方には配車や伝承者の紹介をはじめ,多大なご協力をいただきました。また,次の伝承者の皆さんからお話を伺いました。併せて深くお礼申し上げます。
手打麓 M.T.さん 昭和7年生まれ
手打 N.N.さん 昭和8年生まれ
手打 N.F.さん 昭和15年生まれ
手打 H.F.さん 昭和17年生まれ
手打 M.T.さん 大正9年生まれ
手打 M.R.さん 大正14年生まれ
手打 K.S.さん 昭和7年生まれ
瀬々野浦 N.T.さん 大正13年8月15日生まれ
瀬々野浦 N.I.さん 昭和6年2月24日生まれ
※このWeb版レポートでは伝承者名をイニシャルにさせていただきました。
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