金峰町の棒踊り - 田布施・大田・阿多・棒踊りの構造・棒踊りの成立・まとめ|鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
阿多校区では、
6人がらみ棒踊り(花瀬) 花瀬棒踊りは、「お田植え踊り」とも言われ、昔は6月に高良神社の祭りで踊っていたという。その後中断し、今から40年前に復活した。今は高良神社に奉納することはなくなったが、敬老会では毎年披露する。
踊りの隊形は3列縦隊で、6人1組の踊り。2015年は7人踊り子がおり、途中1人交代しながら1組で踊った。昔は3組も4組もできたという。保存会の方によれば、「腰をしっかり割って、踏ん張って踊れ」と先輩から言われていたという。また、「ジュッコダンゴ」(ステップ)をきちんと決めるのも特徴とのこと。
採り物は全員六尺棒を右手に持つ(左手は採り物なし)。実測した棒は150.5センチ、直径3センチの堅木。昔はまだ長かったという。服装は、左右列は、紫を基調とした柄物の浴衣に白短パン、白又は紺の手甲、黒脚絆、白足袋、ワラジ、白鉢巻き姿。朱色の襷をかけている。中央列は、白の浴衣に紫の帯を締め、手甲も紫。襷は赤色で、左右の紫浴衣と中央列の白浴衣が対照的になっている。昔は足袋をはかず、藁草履で踊ったという。
次の歌詞が伝承されている。
○「後ろが山で、前は大川」――山は郷中山、川は万之瀬川のことと伝えられている。
○「山太郎蟹は、川の瀬に棲む」
○「焼野の雉は、岡の背に棲む」
○「清めの雨は、パラリと振り通る」
○「今こそ通る神に物詣り」――これは引き上げの歌。
4人がらみ鎌踊り(松田) 松田鎌踊りは、「ハゲオドイ」ともいい、高良神社で半夏生のときに奉納していた。保存会当日配布資料によれば「薙刀踊り」「お田植え踊り」とも呼ばれという。また、同資料によれば、140年ぐらい前、加世田川畑から伝わり、戦後昭和26・27年当時、青年団で踊っていたとされる。その後中断し、昭和51年に保存会結成、「地域内外の誇れるものとして村づくりの中核となっている」〔同資料〕。現在は、敬老会での披露のほか、春の自治会大運動会などでも踊られる。
ここでは、2015年9月21日の敬老会の日に、奉納・披露された棒踊りを報告したい。
先頭に削り掛けのシベ竿が付く。松田ではこれを「ホコ」と呼ぶ。全長443センチ・直径8.5センチ。先端部はホサの木(イッサキ)で作った削りかけが付いている。その端に60センチの杉板を指してある。杉板には、表に「奉寄進 松田鎌踊保存会」裏に「奉寄進 松田南北自治会 平成十九年九月吉日」。
踊りの隊形は、2列縦隊の4人がらみ。2015年の踊り子は10名で、交代しながら2組が踊った(小学生2名、中学生1名、高校生1名と、一般6名)。
採り物は、右列が右手に鎌、左列が右手にナギナタを持つ。左右列とも、左手に採り物はない。鎌は実測したものは長さ44センチ。ナギナタは「踊り子のあごの下の高さ」と言われ、実測したものは全長137センチ。鎌を男役、ナギナタを女役ともいう。服装は全員同じで、白地に紺模様の着物、短パン、紺柄の手甲、黒脚絆、黒足袋にワラジ、白鉢巻に赤襷姿。帯は黒帯。
歌詞は次のとおり(保存会当日配布資料。原文ママ)。
1.今こそ立てた 神にもの詣い
2.お城が山で 前が大川
3.焼野のキズは 岡の背にすむ
4.切らねど留る 野辺の笹草
5.鳴子を附けて 鳥の羽を追う
6.七機立てた 筬の目の数
7.山太郎蟹は 川の瀬にすむ
8.鎌柄が折れた サンバを呉れた
9.霧島松は 黄金花咲く
10.抱き合ふて寝れば 月がさえ込む
11.白根苗は 米が八石
12.今こそ帰ろう 神にもの詣い
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