*南さつま歴史街道 - 名勝図会

三国名勝図会
第26巻 薩摩国川辺郡 (2)

薩摩国川辺郡 坊泊

坊津港の現景


史料 注・固有名詞

4 仏寺

4-1

西海金剛峯、如意珠山、龍巖寺、一乗院
〔地頭館より子の方、二町余。〕

坊津村にあり。京師御室仁和寺の末にして真言宗なる。本尊虚空蔵菩薩。〔坐像。定澄作。夾侍力士同作。〕 開山百済国日羅、中興開山成円法師。当寺の由来記等を按ずるに、  敏達天皇十二年、百済国の日羅、来て名山霊崛を遍歴し、此地に坊舎仏閣を営造し、上の坊中の坊下の坊といふ、手づから阿弥陀像三体を刻みて、三坊に

【一乗院】西海金剛峯 如意珠山 龍巖寺
○京師(けいし):京都
○仁和寺(にんなじ):京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派の総本山。創建888年
○虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
○夾侍力士:仁王像(金剛力士像)
○敏達天皇十二年:583年
○崛:そばだつ(霊崛は霊窟の誤記か)

26-17a

安置し、龍巖寺と号す。尋て、  敏達天皇  推古天皇の御願所となる。爾来盛衰一ならず。長承三年、癸丑、十一月三日、 鳥羽上皇院宣を下し、当院を以て紀州根来寺の別院とし、西海の本寺とす。又  上皇の御願所として、如意珠山一乗院の  勅号を賜ふ。其後星霜を経て、寺院漸く衰へ、或は断へ、或は続く。成円法師なる者あり。延文二年、丁酉の歳、当院を再建して、中興第一祖となる。成円法師は、素日野少将良成といふ。其父日野中納言某、鹿篭硫黄崎に配流す。良成京師より来り。父を省て、坊津に駐留せり。遂に発心して、此津西光寺住持日成律師に従て出家し、四度瑜伽を修す。既にして京師に上り、仁和寺常瑜伽院御室一品入道寛性法親王に従って広沢派の真言秘法を伝て、印可を受く。時に法親王虚空蔵大士の像を成円に賜ふて、当寺の本尊にて、福徳の本尊なり。〔虚空蔵菩薩は、南方

○長承三年:1134年(甲寅)。癸丑の年は、前年の長承2年(1133年)
○星霜(せいそう):としつき
○延文二年:1357年(丁酉)
【成円法師】日野少将良成
○素(もと)
【西光寺】
【日成律師】
○瑜伽(ゆが):密教で、行者の身・口・意の働きが仏のそれと合致すること。ヨーガ。
○寛性法親王:伏見天皇の皇子(1289〜1346)
○広沢派:真言宗の流派の一つ。広沢流
○印可:師僧が弟子の悟りを証明すること。

26-17b

宝部の尊にて、福徳福貴を主とる。大日経疏曰、虚空蔵者如虚空破壊、一切無勝者、蔵者如人有大宝蔵、施所欲者自在取之、不下レ貧乏、如来虚空之蔵、亦復如是、一切利楽衆生、事皆従中出、無料法宝自在、而無窮竭ノ相、名虚空蔵也、云云、理趣経、虚空蔵章云、修行者若入此曼茶羅、令人現生所求、一切富貴階位悉得、滅一切貧窮業障云々、愍念貧窮、常行忠施、三輪清浄心無慳怯、当与等虚空三摩地相応、不久獲得虚空蔵菩薩自云云、宿曜経、儀軌虚空蔵条云、若人欲福智依此菩薩云々、虚空蔵は、かゝる三摩地の尊なる故、法親王の賜ひしなるべし。〕 既にして足利大将軍尊氏に謁して、寺院の再建を請う。文和三年、春、願書を京師に上る。伝奏して許可を受く。 邦君齢岳公、有司に命して、当寺を経営す。延文二年、功を畢れるなり。是より密教を相承す。第四世頼俊法印、聡敏博達を以て称ぜらる。高野根来に遊て、教相の玄旨を究む。又南都東南院に至て、倶舎法相を(ナラ)ふ。又、根来寺学頭快憲僧都に随て、広沢派の秘法を受く。後又仁和寺智慧門院宥海和尚に随て、広沢の密法を問ふ。和尚頼俊を器とし、授るに自宗肝心密法淵源を以てし、一流附法の弟子とす。尋て経典

○大日経疏:大日経の注釈書
○理趣経:真言宗の常用経典
○三輪:身・口・意の三業
○三摩地:心が統一されて安定した状態。三昧
○宿曜経:密教経典
○文和三年:1354年
○邦君:太守(島津氏当主)
【齢岳公】島津氏久。島津氏第6代当主。(1328〜1387)
○延文二年:1357年
○畢れる(終われる)
【頼俊法印】一乗院第4世
○高野根来:高野山、根来寺
○玄旨(げんし):奥深い趣旨
○南都:奈良
○東南院:東大寺東南院。真言宗の拠点寺院
○倶舎法相:倶舎宗・法相宗
○根来寺(ねごろじ):和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山
○快憲:金剛峯寺170代座主か?
○僧都(そうず):僧綱(僧侶の階層)の一つ。
○宥海和尚
○器:才能ある者。大器

26-18a

四十函、及び仏像道具等を与ふ。且告て曰く、汝速に国に帰て、密教を弘宣し、邦家を鎮護せよと。於是応永十五年、根来寺を辞して、当寺に帰る。所得の仏像等を宝蔵す。是より当寺の密法一新せり。第八世頼忠法印が時 邦君大中公に啓する旨趣あり。天文十五年、乙己、春、 公畠山中務太輔重国〔重国除髪して橘隠軒と号す。洛陽の人なり。天文年中、乱を避て本藩に寓居せしが、後近衛藤公信輔に従て、坊津に来り居る。没して一乗院山中鳥越に葬る。橘隠軒一男二女あり。共に僧尼となる。一男は、本府真言宗安養院の住持となる。 貫明公の命によって還俗し、長寿院盛淳と号し、元老に任ず。関ヶ原の役に、 松齢公に代て戦死す。〕 を使いとし、頼忠と共に状況せしめらる。縁故を奏して、所謂あり。是春三月四日、  後奈良天皇の勅願所に任せられ、且西海金剛峯五字の勅額、及び御短冊二十枚の宸書を賜ふ。又頼忠を正三位法印に進む。金剛峯寺は、高野山の寺号なり。然るに西海金剛峯寺の号を賜ふは、当寺殊特の栄光なり。爾来三斎月ごとに、初七日

○応永十五年:1408年
【頼忠法印】一乗院第8世
【大中公】島津貴久。島津氏第15代当主。(1514〜1571)
○天文十五年:1546年(丙午)。乙己は前年の天文14年(1545年)
【畠山国重】畠山中務太輔重国。橘隠軒
【貫明公】島津義久。島津氏第16代当主。(1533〜1611)
○還俗(げんぞく):一度、出家した者が、再び俗人にかえること
○長寿院盛淳:戦国時代の武将。島津氏の家臣。父は畠山頼国(国重ではない)。(1548?〜1600)
【松齢公】島津義弘。島津氏第17代当主。(1535〜1619)
○後奈良天皇:第105代天皇(在位1526〜1557)
○宸書(しんしょ):天皇の書
【西海金剛峯寺】一乗院寺号

26-18b

護摩供を修し、  皇家の栄福を祈る。第十七世快義上人、 寛陽公の命を蒙りて、上京す。寛文五年、乙巳九月三日、仁和寺総法務入道二品性承法親王〔仁和寺第二十七世。〕 の令旨を蒙り、仁和寺の院家摩尼珠院を兼帯す。延宝二年、七月十日、住持に永世上人号を許さる。又菊金紋先箱を用ゆることを得せしむ。宝暦九年、第二十九世尊盈、僧正に任ぜらる。又旧記には、往古は本山紀州根来寺伝法院、西海龍巖寺一乗院、関東本寺魔尼珠山明星院、〔一に遍照院に作る。〕 真言新義の学徒を総督し、諸寺に紀綱たること、鼎足の如しといへり。当寺  鳥羽上皇と、  後奈良天皇との、勅願所なるを以て、中殿に、  二帝の天牌を東西に安し、  太上皇殿の御額を掲く。〔貞享三年、仁和寺金剛定院御室一品入道覚助法親王の令旨にて、仁和寺真乗院前長長者大僧正孝源和尚、此額を書て是を賜へり。第十八世の住持覚秀が時なり〕 二帝の聖忌辰ごとに、画像を出し、香華飲食を備えて、法会を

【快義上人】一乗院第17世
【寛陽公】島津光久。島津氏第20代当主・第2代藩主。(1616〜1695)
○寛文五年:1665年(乙巳)
○承法法親王 性承:仁和寺第22世(27世ではない)。(1637-1678)
○延宝二年:1674年
○宝暦九年:1759年
【尊盈】一乗院第29世
○僧正(しょうじょう):僧綱(僧侶の階層)の一つ。僧都の上
○真言新義:真言宗の宗派の一つ。新義真言宗。根来寺が総本山
○紀綱:綱紀。法度。統治。治める
○鼎足(ていそく):鼎(かなえ)の足のように三者の勢力があること
○天牌:天皇の位牌
○太上皇:太上天皇。上皇のこと
○貞享三年:1686年
【覚秀】一乗院第18世

26-19a

図「一乗院」

【鎮守】【宝庫】【方丈】【客殿】【胡麻堂】【鐘楼】【本堂】【閼伽井】

26-19b

【五仏堂】

26-20a

修し。今に至て怠らず。又毎月朔日には、門徒衆僧を集て、大供養を設け、一日不断に般若理趣品を読誦し、上は  二帝の聖霊に回向し、下は法界の含識を救済す。往古より今に至て、永代不退の軌則とす。往古は七月十日を以て、法会の定日とせしに、事故ありて、今は七月朔日に改むといふ。 大中公、 貫明公、御幼年の時、田布施等より当時当寺に来て、第八世頼忠上人を師として、習学し玉へるとて、両公の齎し玉ひし御硯匣、〔御硯匣の製、精麗にして、描金(マキエ)なり。〕 貫明公の御几案等、今に蔵て経蔵にあり。又供奉石といへるも残れり。且其御書斎もありしが、元禄六年、寺院火に罹りて、焼亡せり。此御書斎は、旧乾清坊といひしに、梅岳君改て清趣亭と名づけ、手自ら清趣の二字を書して、是を掛らる。今に掛軸にして是を宝蔵す。〔其清趣亭は、即今寺内 邦君御坐の間の名に用ゆ。〕 又其時梅岳君より頼忠法印を謝し玉ひし、御書翰

○般若理趣品:般若理趣経(理趣経)
○回向:死者の成仏を祈る
○含識(がんしき):識を有するもの、すわなち衆生(いけとし生けるもの)
【大中公】島津貴久
【貫明公】島津義久
【田布施】南さつま市金峰町の内
【頼忠上人】前出
○齎し(もたらし)
○匣(はこ)
○几案(きあん):机
○元禄六年:1693年
○罹りて(かかりて)
【乾清坊】【清趣亭】義久の書斎
【梅岳君】島津忠良(日新公)
○書翰(しょかん):書簡

26-20b

も伝れり。此等の由緒にて、梅岳君 大中公、貫明公の御霊牌を、当寺に安置せり。 敏達帝の時は、封戸ありしに、其後散失す。 齢岳公新建の時、三千二百六十町を寄付せられしが、其後寺領漸く減して、一千五百石となりしに、天正中、豊関白寺社領毀破の時、又減し、今官より三百五十九石を給与せらる。此外先住持等より寄付の香火田、更に多し。当寺火災に罹りて焼亡し、或は颶風の為に破壊せしこと一ならず。然りし時は、皆 邦君より新建して、旧に復せらる。当寺は此の如き由緒の古刹なれば、宸筆文書の属ひ甚多し。しかのみならず、天正元年、三月廿一日、紀州根来寺兵燹に罹りし時、山僧覚因法師、其徒と当寺に遁れ来り。齎らせる宝品の伝はれるもの多しとかや。盖坊津は、  皇国の三津〔三津前条に見ゆ。〕 と称ぜる名港にて、異国往来の要津なれば、  皇国鎮護の為に、この

○霊牌:位牌
○敏達帝:第30代天皇。(在位572〜585)
○封戸(ふこ):古代、食封の対象となった戸
【齢岳公】島津氏久
○豊関白:関白豊臣秀吉
○颶風(ぐふう):猛烈な風
○宸筆(しんぴつ):天子の直筆
○天正元年:1573年
○兵燹(へいせん):兵火、戦火
○遁れ(のがれ)
○齎らせる(もたらせる)
○盖(けだし):おそらく

26-21a

霊刹を崇隆し玉ふならん。実に坊津と当寺とは、此地の両絶なり。於戯(アヽ)昔は根来寺の別院として化を本山に斉し、今に  勅願所として、光を  天廷に掲く。建寺の古き、縁故の重き、什宝の多き、土地の霊なる、諸州の寺院に於て、聞事あるや少し。是に由て見れば、豈ひとり本藩の名刹なるのみならんや。皇国中匹少き名刹と称ずべし。故に奕世の 邦君、崇敬他に異なり。当寺後は林阜に依り、前は巨港に近く、名山勝水美を几席に献し。怪巖古木奇を軒窓呈す。千年の巨刹、無双の幽境、遊歴の徒、賞せざる者なしとかや。

○化:ここでは教化
○斉(ひとしい)
○豈(あに)
○匹(たぐい)
○奕世(えきせい)の:代々の
○阜:丘
○献し(ささげし)
○幽境:浮世離れした物静かな所

26-21b

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