節 | 史料 | 注・固有名詞 | 頁 |
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4 仏寺 |
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4-1 |
西海金剛峯、如意珠山、龍巖寺、一乗院 坊津村にあり。京師御室仁和寺の末にして真言宗なる。本尊虚空蔵菩薩。〔坐像。定澄作。夾侍力士同作。〕 開山百済国日羅、中興開山成円法師。当寺の由来記等を按ずるに、 敏達天皇十二年、百済国の日羅、来て名山霊崛を遍歴し、此地に坊舎仏閣を営造し、上の坊中の坊下の坊といふ、手づから阿弥陀像三体を刻みて、三坊に |
【一乗院】西海金剛峯 如意珠山 龍巖寺 |
26-17a |
安置し、龍巖寺と号す。尋て、 敏達天皇 推古天皇の御願所となる。爾来盛衰一ならず。長承三年、癸丑、十一月三日、 鳥羽上皇院宣を下し、当院を以て紀州根来寺の別院とし、西海の本寺とす。又 上皇の御願所として、如意珠山一乗院の 勅号を賜ふ。其後星霜を経て、寺院漸く衰へ、或は断へ、或は続く。成円法師なる者あり。延文二年、丁酉の歳、当院を再建して、中興第一祖となる。成円法師は、素日野少将良成といふ。其父日野中納言某、鹿篭硫黄崎に配流す。良成京師より来り。父を省て、坊津に駐留せり。遂に発心して、此津西光寺住持日成律師に従て出家し、四度瑜伽を修す。既にして京師に上り、仁和寺常瑜伽院御室一品入道寛性法親王に従って広沢派の真言秘法を伝て、印可を受く。時に法親王虚空蔵大士の像を成円に賜ふて、当寺の本尊にて、福徳の本尊なり。〔虚空蔵菩薩は、南方 |
○長承三年:1134年(甲寅)。癸丑の年は、前年の長承2年(1133年) |
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宝部の尊にて、福徳福貴を主とる。大日経疏曰、虚空蔵者如二虚空一不レ可二破壊一、一切無二勝者一、蔵ト者如下人有二大宝蔵一、施二所欲一者自在取レ之、不下レ受二貧乏一、如来虚空之蔵、亦復如レ是、一切利二楽衆生一、事皆従レ中出、無料法宝自在、而無二窮竭ノ相一、名二虚空蔵一也、云云、理趣経、虚空蔵章云、修行者若入二此曼茶羅一、令レ人現生所レ求、一切富貴階位悉得、滅二一切貧窮業障一云々、愍二念貧窮一、常行二忠施一、三輪清浄心無二慳怯一、当与二等虚空三摩地一相応、不レ久獲二得虚空蔵菩薩自一云云、宿曜経、儀軌虚空蔵条云、若人欲レ求二福智一当レ帰二依此菩薩一云々、虚空蔵は、かゝる三摩地の尊なる故、法親王の賜ひしなるべし。〕 既にして足利大将軍尊氏に謁して、寺院の再建を請う。文和三年、春、願書を京師に上る。伝奏して許可を受く。 邦君齢岳公、有司に命して、当寺を経営す。延文二年、功を畢れるなり。是より密教を相承す。第四世頼俊法印、聡敏博達を以て称ぜらる。高野根来に遊て、教相の玄旨を究む。又南都東南院に至て、倶舎法相を |
○大日経疏:大日経の注釈書 |
26-18a |
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四十函、及び仏像道具等を与ふ。且告て曰く、汝速に国に帰て、密教を弘宣し、邦家を鎮護せよと。於是応永十五年、根来寺を辞して、当寺に帰る。所得の仏像等を宝蔵す。是より当寺の密法一新せり。第八世頼忠法印が時 邦君大中公に啓する旨趣あり。天文十五年、乙己、春、 公畠山中務太輔重国〔重国除髪して橘隠軒と号す。洛陽の人なり。天文年中、乱を避て本藩に寓居せしが、後近衛藤公信輔に従て、坊津に来り居る。没して一乗院山中鳥越に葬る。橘隠軒一男二女あり。共に僧尼となる。一男は、本府真言宗安養院の住持となる。 貫明公の命によって還俗し、長寿院盛淳と号し、元老に任ず。関ヶ原の役に、 松齢公に代て戦死す。〕 を使いとし、頼忠と共に状況せしめらる。縁故を奏して、所レ謂あり。是春三月四日、 後奈良天皇の勅願所に任せられ、且西海金剛峯五字の勅額、及び御短冊二十枚の宸書を賜ふ。又頼忠を正三位法印に進む。金剛峯寺は、高野山の寺号なり。然るに西海金剛峯寺の号を賜ふは、当寺殊特の栄光なり。爾来三斎月ごとに、初七日 |
○応永十五年:1408年 |
26-18b |
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護摩供を修し、 皇家の栄福を祈る。第十七世快義上人、 寛陽公の命を蒙りて、上京す。寛文五年、乙巳九月三日、仁和寺総法務入道二品性承法親王〔仁和寺第二十七世。〕 の令旨を蒙り、仁和寺の院家摩尼珠院を兼帯す。延宝二年、七月十日、住持に永世上人号を許さる。又菊金紋先箱を用ゆることを得せしむ。宝暦九年、第二十九世尊盈、僧正に任ぜらる。又旧記には、往古は本山紀州根来寺伝法院、西海龍巖寺一乗院、関東本寺魔尼珠山明星院、〔一に遍照院に作る。〕 真言新義の学徒を総督し、諸寺に紀綱たること、鼎足の如しといへり。当寺 鳥羽上皇と、 後奈良天皇との、勅願所なるを以て、中殿に、 二帝の天牌を東西に安し、 太上皇殿の御額を掲く。〔貞享三年、仁和寺金剛定院御室一品入道覚助法親王の令旨にて、仁和寺真乗院前長長者大僧正孝源和尚、此額を書て是を賜へり。第十八世の住持覚秀が時なり〕 二帝の聖忌辰ごとに、画像を出し、香華飲食を備えて、法会を |
【快義上人】一乗院第17世 |
26-19a |
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図「一乗院」 |
【鎮守】【宝庫】【方丈】【客殿】【胡麻堂】【鐘楼】【本堂】【閼伽井】 |
26-19b |
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【五仏堂】 |
26-20a |
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修し。今に至て怠らず。又毎月朔日には、門徒衆僧を集て、大供養を設け、一日不断に般若理趣品を読誦し、上は 二帝の聖霊に回向し、下は法界の含識を救済す。往古より今に至て、永代不退の軌則とす。往古は七月十日を以て、法会の定日とせしに、事故ありて、今は七月朔日に改むといふ。 大中公、 貫明公、御幼年の時、田布施等より当時当寺に来て、第八世頼忠上人を師として、習学し玉へるとて、両公の齎し玉ひし御硯匣、〔御硯匣の製、精麗にして、 |
○般若理趣品:般若理趣経(理趣経) |
26-20b |
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も伝れり。此等の由緒にて、梅岳君 大中公、貫明公の御霊牌を、当寺に安置せり。 敏達帝の時は、封戸ありしに、其後散失す。 齢岳公新建の時、三千二百六十町を寄付せられしが、其後寺領漸く減して、一千五百石となりしに、天正中、豊関白寺社領毀破の時、又減し、今官より三百五十九石を給与せらる。此外先住持等より寄付の香火田、更に多し。当寺火災に罹りて焼亡し、或は颶風の為に破壊せしこと一ならず。然りし時は、皆 邦君より新建して、旧に復せらる。当寺は此の如き由緒の古刹なれば、宸筆文書の属ひ甚多し。しかのみならず、天正元年、三月廿一日、紀州根来寺兵燹に罹りし時、山僧覚因法師、其徒と当寺に遁れ来り。齎らせる宝品の伝はれるもの多しとかや。盖坊津は、 皇国の三津〔三津前条に見ゆ。〕 と称ぜる名港にて、異国往来の要津なれば、 皇国鎮護の為に、この |
○霊牌:位牌 |
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霊刹を崇隆し玉ふならん。実に坊津と当寺とは、此地の両絶なり。 |
○化:ここでは教化 |
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