太鼓踊りのバチ - 南九州市・いちき串木野市・日置市・南さつま市・枕崎市・指宿市|鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
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南九州市では、川辺(かわなべ)地域に多彩な太鼓踊りが伝わっているが、知覧(ちらん)、頴娃(えい)と東に行くにしたがい、伝承が希薄な地帯となる。まずは、勝目(かつめ)の太鼓踊りから見ていきたい。
川辺町勝目地区の太鼓踊りには、上山田(かみやまだ)・中山田(なかやまだ)・下山田(しもやまだ)(西・東)の踊りがあり、現在は、毎年順番に、一つだけが踊られる。竹屋神社の秋祭り「豊祭(ほぜ)」に奉納され、その後、一日中かけて勝目地区内を回っていく。上山田・中山田の踊りには、ワラフリという先導役が見られる(写真1~7)。
勝目太鼓踊りの内容 踊りの場を「ニワ(庭)」と呼び、ニワでは二重の円陣になって踊る。その円陣の外側に歌い手が付く。各地区の太鼓踊りの役を表1に整理した。
陣形 | 上山田太鼓踊り | 中山田太鼓踊り | 下山田太鼓踊り |
---|---|---|---|
外円 | 露払い(ワラフリ - わら振り。数名) | (同左) | 先導役なし |
大太鼓(ワッデコ - 脇太鼓。30人前後) | (同左) | (同左) | |
内円 (ナカイリ) |
鉦(カシタガネ・ヒラガネ) | (同左) | (同左) |
小太鼓(カシタイリコ・ヒライリコ) | (同左) | (同左) | |
円陣の外 | 歌上げ(数名から10名前後) | (同左) | (同左) |
次に、内円・外円の服装・振り・楽器・楽及び採り物、歌い手の歌詞・曲を見てみよう。
内円になるナカイリ(中入り)は、振袖で女装して花笠を被る。ナカイリは鉦2人とイリコ2人から成る。カネ役は鉦を左手に水平に持ち、右手にもった撞木(T字形の撥)で上から打つ。イリコ(入り鼓)役は、つづみ状の小太鼓を肩から胸の下に垂直に吊るして、両手に持った桴で両側から小太鼓を打つ。鉦の音が太鼓踊り全体のリード役となる。
外円になるワッデコ(脇太鼓)は浴衣姿で、肩から腹の前に大太鼓を垂直に吊るす(中山田は肩からは吊るさず、腰に結ぶ)。上山田と下山田のワッデコは、模造の刀を差した鮮やかな矢旗を背中に担ぐ。ワッデコの桴を「ベ」と呼び、いずれも藁縄を切ったもの。芯は入れない。上山田の大太鼓は直径50cm・厚さ35cmで、桴は長さ26cm・直径4cm。中山田の桴は長さ30cm、直径4cm、先に白布のシベ(御幣。長さ10cm)がついている。下山田東区では、直径48cmの大太鼓を、長さ28cmの桴で打つ。
上山田と中山田では、ワッデコの前にワラフリという先払いが付く。ワッデコの桴の先を広げササラ状にしたもの一対を持って踊る。この採り物を「ワラ」と呼ぶ。太鼓はつけないが、全体が円陣で踊る時にはワッデコの先頭につき、道中では先払いとなる。上山田で実測した「ワラ」は、長さ85cm、手元の直径9cm。現在は畳幟人に頼んで作ってもらうという。中山田でもこの採り物を「ワラ」と呼び、長さ55cm、手元の直径9cmで、上山田のものより若干短い。外円の踊りは勇壮で、特に上山田のものはワラフリを先頭に激しく踊る。
次に円陣の外にいる歌上げ(歌い手)について記す。人数は数名から10名程度で、いずれも保存会役員の揃いの法被を着ている。上山田は青、中山田は赤、下山田東は緑色の法被。役員にほかに、踊りの先頭に立つ幟旗を持つ役がある。歌はゆったりした曲調のものが多く、途中に入る踊り子の合いの手のほうが勇ましい。
歌詞は表2のとおりで、各地区の歌詞を比較すると、中山田だけに「鎌倉」と「十三鉦」があり、他の三踊りの歌詞はほぼ共通している。「鎌倉」は、加世田津貫や大浦でも唄われている歌詞で、一方上山田・下山田の「高橋殿」や「空行く雲」などは、加世田益山ほか各地で聞かれる。歌詞の面からは、この二つのグループに分けられるように思う。
唄い出し | 上山田太鼓踊り | 中山田太鼓踊り | 下山田西太鼓踊り | 下山田東太鼓踊り |
---|---|---|---|---|
空行く雲は | 演目3「カンカンコン」 | ― | 演目8「チンチンコン」 | 演目4「空行く雲」 |
末殿 | ― | ― | 演目9「スエド」の1番 | 演目5「末ど(末殿)」 |
豊後勢は | 演目6「チョイチョイチョイ」 | ― | 演目9「スエド」の2番 | ― |
細川殿 | 演目7「ドッツシ」の1番 | ― | ― | ― |
高橋殿の | 演目7「ドッツシ」の2番 | ― | 演目10「タカハシ」 | 演目6「高橋」 |
豊後の国の | ― | ― | 演目11「タンタンモチ」 | 演目7「豊後」 |
鎌倉の | ― | 演目4「横跳び」 | ― | ― |
十三の鉦の | ― | 道楽の一つ「十三鉦」 | ― | ― |
勝目太鼓踊りの由来伝説 次に由来について、地元での伝承を紹介しよう。『川辺町郷土史』では、上山田の太鼓踊りの項で、勝目太鼓踊りの由来について、次のように述べられている。〔郷土史1607頁〕
(上山田太鼓踊りは)「この踊りは文禄元年(1592)島津義弘公の朝鮮出兵のおり、山田から従軍した兵士の出陣を祝って踊られたものと言われている。…勝目太鼓踊りは出陣、帰陣、凱旋の三つから成っていて、上山田のものは出陣の踊りで、先頭に藁振り、次に先口、中人、太鼓が続き、勇壮かつ優雅に踊る…帰陣は下山田、凱旋は中山田で踊られており、この三つが組み合わされるといっそう味わいがある。」
保存会の方に話を伺うと、「上山田の踊りは勇壮で、中山田・下山田のものは落ち着きがある」という。また、①矢旗に挿してあるカタナ(板で作った刀)が異なる(上山田のカタナは切れ味よく、下山田のものは刃こぼれしている)、②先払いのワラフリ役が帰陣する下山田には見られない点も、伝説を補うものと言い伝えている。
勝目太鼓踊りの民俗芸能としての位置づけは、各地の伝承を紹介した後、第4節第(2)項で検討することとしたい。
南九州市の他の太鼓踊りについては、筆者は実見していないので、郷土史等を用いてその状況を確認しておこう。
【事例2】川辺地域の太鼓踊り 勝目地区以外の川辺地域では、次の集落に太鼓踊りが伝承、あるいは過去に踊られていた。〔南九州市文化財ガイドブック(川辺編)60-63頁〕
○今も定期的に踊られるもの…平山・古殿(ふるとの)。
○不定期に踊りが伝承しているもの…野間・今田・高田。
○過去に踊られていたもの…神殿(こうどの)、清水、田代、野崎、両添、小野、田部田(たべた)、永田。なお、同書によれば、川辺ではほぼすべての集落に太鼓踊りがあったという〔63頁〕。また、野間・今田・高田の太鼓踊りは、江戸時代の記録によれば、元々は旧暦九月に宮(みや)の飯倉神社に奉納していたという〔同書62-63頁〕。
このうち、平山太鼓踊りは、2年に1度、10月に、平山南方神社に奉納されるもので、途絶えたことがなく、復活した他集落の太鼓踊りの基本になっているという。カシタガネ2人とヒガラネ2人で中入りを構成し、花笠を被る。ワッデコ(脇太鼓)は浴衣姿にシベのついた菅笠を被り、腰の位置に固定した太鼓を、持ち手が房状になった藁製の桴でたたくという〔同書60頁〕。
平山太鼓踊りのワッデコの桴を、同書の写真で確認すると、上山田・中山田のワラフリの原型ともいえる形状をしている。一方高田のものを同書の写真でみると、桴は勝目地区のワッデコに共通する藁製のものであることがわかる。
※平山太鼓踊り2015年追加調査:中入りは鉦が四人(カシタガネ2人・ヒラガネ2人)で、小太鼓や鼓は入らない。その外側に幼児から小学生児童による小太鼓、さらに外側に大人による大太鼓(ワッデコ)で円陣を組む。中入りは紺絣に花笠姿で、左手に鉦・右手に撞木を持つ。小太鼓・大太鼓は浴衣にシベ笠を被る。矢旗はない。太鼓は、肩から腹の前につるし、腰の位置に固定してあり、両側からバチで打つ。バチは小太鼓・大太鼓とも、全員、ワラ製ササラ状のものを用いる。上山田のワラフリの「ワラ」と同形。
【事例3】知覧地域の太鼓踊り 知覧地域では上別府の太鼓踊りが戟後復活し、中渡瀬、竹迫、松山、瀬世(せせ)、桑代で踊られていた〔知覧町文化財ガイドブック 87頁〕。
上別府太鼓踊りについて、『知覧町郷土誌』の中で、執筆担当の下野敏見は次のように報告している。「太鼓が30~40人で、自浴衣、自ズボン、黒脚粁、白足袋、ワラジ、菅笠に紙製の垂れつきの花笠姿で太鼓を胸に懸け、藁製の桴を両手に持って打ち鳴らす。」〔郷土誌1304頁〕
なお、下野敏見は同郷土誌で知覧の太鼓踊りについて次のように検討を加えている。――①矢旗を背負わない。太鼓打ちの花笠が矢旗を代行。呪術色が残っている。②鉦打ちや入れ鼓は特に美しい花笠をかぶり、女装ないし稚児姿。巫女の招霊を表現した呪術的形態。②何のための招霊かは他地域ほど明らかでない。しかし、瀬世の太鼓踊りが、豊玉姫神社で踊られたことから、虫追い祈願として氏神で踊られたものと推測される――とし、次のように述べている〔郷土誌1305-1306頁〕。
「虫追い芸能は、御霊が瞑虫と化して稲を荒らすのを防ぐため、太鼓踊りを踊って御霊を慰めるのを目的とするものである。したがって、呪術色があるということは、御霊を招霊し、慰めるという原理が残っているということである。しかしそれが他地域ほど明確ではないのは、風流化が進展し、芸能としてのみ踊られているということと共に、知覧が稲作だけでなく畑作地帯であるという特殊事情の反映も指摘できるのである」
なお、知覧地域の太鼓の桴の形については、大浦などと同じで、南薩型〔郷土誌2206頁〕と報告されている。また同郷土誌によれば、瀬世の太鼓の桴は「桐か臭木の平たいもの」と報告されており〔郷土誌1304頁〕、この事例は後述する枕崎市の豊祭踊りとも共通し、興味深い。
【事例4】頴娃地域の太鼓踊り 旧揖宿郡の地域は、同じ南薩でも太鼓踊りの希薄地帯であり、『頴娃町郷土誌』でも、「もう再び日の目を見ることはないであろう幻の伝統芸能」として、郡浦芝原の打太鼓踊り(うっでこ)の名があげられているのみとなっている〔郷土誌719頁〕。
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