十五夜綱引き・綱引きずり |八月十五夜 < 加世田風物詩 < 南さつま半島文化|
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10年ぐらい前までは,前日に子供たちがリヤカーで各世帯からワラを公民館に集めてきて,クズのカズラを芯にしてネッテ(綯って)いった。数年前から子供がほとんどいなくなって,今はワラをもってきてもらい当日の午後5時から親たちがネリ始める。人の 高さの2倍ほどあるやぐらを設け,そこに3本綱をかけて,「ソーラヨイ,ソーラヨイ,ソーラヨイヨイ」の掛け声でネリ上げていく。
ネッタ綱は公民館前の市道に出して,とぐろ状に巻き,それを囲んでお月様にお祈りする。その後,公民館で一杯飲み,8時頃になると集落の人達が公民館前に集まってくる。「十五夜の綱にかかっただけで風邪をひかん。引けばなおひかん」と言われている。今年は子供の参加は1名。各世帯から1名程度参加しているが,それでも20〜30人程度。
男対女,川を挟んで集落の上と下などの対抗戦をする。今年は約1時間続いた。綱引きが終わると,ツナネリのやぐらの下に綱を持っていって土俵状にし,相撲大会となった。終わった綱は敷き草として,ほしい人が持っていく。
*1994.9.20(旧8月15日)筆者調査 伝承者は明治43年生まれ男性。収集地は,鹿児島県薩摩半島加世田市津貫校区干河地区中原集落(かせだし つぬき ひご なかはら)。
*拙著「年中行事風土化の研究」(『鹿児島民具第12号』1996鹿児島民具学会)から一部補訂して転載した。時間表現については調査時点のもの。
準備は1週間位前からする。各世帯から子供たちがワラを集めてきて,青年が綱をネッテ(綯って)いた。昔は人数も多かったからできた。3年くらい前から既成のロープで綱引き合戦だけするようになった。歌の練習を松明のもとでする。この唄は200年くらいの伝統があると伝えられている。
当日は,まず男の子が唄を歌って集落の中を走り回る。このコースは特に決まっていないが,綱引きが始まることを知らせる意味があったのだろう。その間,綱は公民館の庭に,とぐろ状にしておいて置く。
子供たちが触れから帰ると,公民館の庭で綱を蛇のように大きく蛇行させて置く。サケ川(境川)を蛇が泳いでいるという風になる。そして男の子が十五夜の唄「愛宕参り」を1番歌い終わると,サケ川である綱を飛び越え,また2番を歌って飛び越えていく。そうして6番まで歌っていって,それが終わると綱引き合戦をする。唄って飛び越えるのは女の子にはやらせなかった。昔は女の子に綱をまたがせると,綱が切れるといわれていた。今は集落あげて綱引き合戦だけする。
綱引きのあと相撲大会になる。この相撲は大変なにぎわいで枕崎あたりからも飛び入り参加があった。深夜2時ごろまでかかったこともあった。終わった綱は茶を作る人が敷き草に持って帰った。
*1995.9.9(旧8月15日)筆者調査 伝承者は昭和8年生まれ男性。収集地は,鹿児島県薩摩半島加世田市久木野校区中山集落(かせだし くきの なかやま)。
*未発表資料。
昔は十五夜前の日曜日にジュウシガシタ(十四頭)が中心になり,青年が手伝って綱をネッテ(綯って)いた。夏休みが終わると,子供たちがワラを各家からもらって回る。今は公民館の役員や消防団員でネッテいる。綱は前からサキヅナ,ツナ,ドンヅナという部分に分かれており,1992年のサキヅナは長さ105センチメートル・直径4.5センチメートル,ツナは長さ450センチメートル・直径25センチメートル,ドンヅナは長さ105センチメートルであった。ツナには子供が引っ張るためのコシヅナがついている。
当日は,午後5時に公民館前に集合してのぼりを先導に,集落内を引きずって回る。途中曲がり角では子供がダンギという棒を持っており,ツナはそれに引っ掛けてうまく回っていく。このダンギは今はスギを使っているが,昔は節のないカタギを使っていた。そして二日ぐらい前に曲がり角ごと30センチメートルくらいの穴を掘ってワラを詰めておき,当日ツナが通るときにそのワラを取ってダンギを突っ込んだ。
引きずる途中は次の歌をうたう。「十五夜おっ月さん早よ出やれ,子供が喜び綱を引く,エーッサッサ,エーサッサ」。昔は他の集落の綱とかち合って先頭争いなどもした。
公民館に帰ると,綱の引き合いはせずに,すぐに土俵を作って,中にシラスを入れ,相撲を取る。終わると綱は希望者がもって帰って肥料にする。
*1992.9.11(旧8月15日)筆者調査。収集地は,鹿児島県薩摩半島加世田市万世校区唐仁原地区(かせだし ばんせい とうじんばら)。
*拙著「年中行事風土化の研究」(『鹿児島民具第12号』1996鹿児島民具学会)から一部補訂して転載した。時間表現については調査時点のもの。
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