小川三郎
何故蛸壺をとりあげたか。民具学の論考でなく民俗随想としての話題としたい。
『鹿児島民俗』にタコにまつわる問題ををあれこれと提供する中に蛸壺をほんの一部であるがとりあげた。蛸壺は太古の時代から基本的に変わっていないという弥生時代の祖先がつくりあげた不思議さに魅せられた。自分が戦後稼業(海産物製造業)に従事するうちに天草の龍ヶ岳町の鮮魚運搬船(方言でブエンダテ)より十数個の蛸壺をもらって、吾が家近くの海岸の浅瀬に投入し、二・三日おきに引揚げては食膳をうるおした。昭和四十年代前後から甑島は港湾設備が整備された。五十年以降蛸壺の投入ができなくなり、消え行く民俗の風物詩の一片を遺すことにした。
蛸の生態からタコとり話、蛸にまつわる民俗・信仰・民話など拾いあげてみた。
甑島の蛸壺から出発した思い出の数々、錦江湾に昭和三十年代蛸壺を投入された平瀬実武鹿児島市長のエピソード、谷山のヒトロダコ、更に瀬戸内海の明石ダコの黒潮の低温異変によって全滅状態になった。それを救った天草の雌ダコを鮮魚船で四万個も運んで危機を逃れた船長の談など。今昔物語として述べた。
タコの食文化、タコの薬効にも人間とのかかわりが深いことも知らされた。本来ならタコの民具としての話題としたかったが、研究不足で今回は割愛して、あとあとのテーマとした。
2006年11月例会 - 2006.11.4 かごしま県民交流センター