南薩の綱引文化 - 綱引き・綱練り(櫓掛け式・道伸べ式・庭広げ式)・綱曳きずり・ソラヨイ・まとめ|鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
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南さつま市坊津町
材料集め 泊の十五夜行事は、八朔(旧暦8月1日)から始まる。土俵づくりから子供たちの筋回り(触れ回り)・十五夜相撲が連日続き、十五夜前日にツナネリ(綱ない)をする。
大綱の材料は、約120本の荒縄と茅、それにイデナワ(「出で縄」か。シベナワともいう。長さ140cmの藁縄)。茅は以前は丸木浜まで取りに行き(「茅キリ」と呼んだ)、4、5艘の船で運んだ。おにぎりをもって、青年を中心に子供もついていった。その後、集落内で茅を取るようになった。令和元年(2019)は、30年ぶりに茅運びの船団パレードが復活した。荒縄は以前は各世帯から青年団が集めて回ったが、現在は長さ80mのものを、農協から取り寄せる。
綱作り「ツナネリ(道伸べ式)」 東に山を背負い、西に海を臨む、南北に延びる国道の路肩で綱練りを行う。まず、80mの荒縄を持って、子供が走り、道に置いていく。40本(令和元年は35本)置いたところで、中に茅を入れて、その荒縄で包み、それにイデナワを回して締める(70cm間隔)。同様に3本の綱を作っていく。直径は15cm(写真4)。
次に3本の綱の、1本ずつによりを入れていく。50人ほどで、綱を脇に抱え、南北の道路に置かれた北側のほうの住民は、海のほうへ(西側へ)捩じ上げ、南側のほうの参加者は、山のほうへ(東側へ)ねじっていく。掛け声は「はらよいしょーと、しゃんとせこら!」「も一つ、しゃんとせこら!」「ころころと、しゃんとせこらー」。
3本それぞれに、縒りがかかると、それを1本の大綱に練っていく。南側の端をつなぎ合わせ、少し手前を、長さ260cm・直径8cmのモウソウダケに載せる(据え竹には名称は特にない。写真5)。3本それぞれに参加者が海側を向いて、全員山側から海側へ綱を上に回し、縒りを入れていく(3本の参加者は据え棒のほうを向いて、時計回りの右練り)。ここでも「ころころと、しゃんとせこら!」などの元気な掛け声がかかる。3本の綱は、2人の男性が持つ据え竹のところで、1本の大縄になる。練りの力で、据え竹が北側にずっていくが、3本の参加者は1本になったところで抜け出して、練りあがった南側につき、北側(据え竹のほう)に向き直す。出来上がると綱を焼酎で清め、「エベッサー」と唱える。大綱の直径は20cm。
出来上がった綱は、かつては、国道をまたぐアーチがかけられたが、現在は路肩に設けた緑門のアーチに、十五夜本番までかけられておいておく。
十五夜の付随習俗「宮参り」 十五夜当日の行事は、男子の十五夜綱引き行事群と、女子の十五夜踊り行事群が交錯して展開する。十五夜当日の午後、
①女子の習俗「十五夜踊り」 十五夜踊りは昼の宮参りと、月が出るころの2度行われる。九玉神社への「宮参り」では、道楽を踊りながら神社へ向かう。青年や男の子は、女子の後ろから口説歌を唄いながら行列を作る。神社に到着すると女子は円形になって、十五夜踊りを奉納する。
衣装は振袖姿に鉢巻。採り物は、踊りによりシベか扇子を持つ。シベは細竹の両側に、短冊状に切った半紙を、ぼんてんのように付けたもの。長さ50cmほど。扇子の面は白地に日の丸。
十五夜踊りは、現在はシベ踊り2曲と扇子踊り3曲。手踊りもある。
一、しょんが婆さま、焼もちすきで
二、
今朝の七つは、食傷した。
②男子の習俗「柱かため」 青年や男の子が行う習俗で特徴的なものに、宮参りにおける「柱かため(担ぎ)」がある。「帆柱」は2mの木の棒に白布を巻いたもので、青年の代表2人が担ぎ、宮参り行列の中心になる。郷土史研究の早水廣雄氏によれば、「昔、帆船時代は、その年の一番漁獲高のあっ船の帆柱を借りて使用していたが、この帆柱を奉納し、その後これをいただいて帰ることは豊漁祈願の意味があった」という。
宮参り・すじ回りには、男の子はシベ笠(9本のホテイチクで作った円錐形の枠に新聞紙を張り、その上に半紙を切って作った短冊状の紙を張り付けたもの)を被る。高さ30~40cm。シベ笠について小野重朗氏は、南九州市知覧町で行われるソラヨイヨイヨイ笠が簡略化したものと述べている〔小野1990、233~232〕。
宮参りの道中は、十五夜歌の「お久米口説き」を唄う。
(以下省略。35番まで記されている。2005年に実際に使われていた歌詞カードを転載。郷土誌のものと異なる)
綱引と綱流し 月が昇ると、公民館前の広場(かつては浜)で、女子による2回目の十五夜踊りがある。そこでは男子が、踊りの輪に走り込んで邪魔をする「オドリコワシ」という習俗が見られる。踊りは一旦止まってしまうが気を取り直して再び踊りはじめる。オドリコワシは何度も来襲し、十五夜踊りは停止と再開を繰り返す。その後、緑門にかけていた十五夜綱を下ろし、地区対抗で綱引合戦。綱引が終わると、十五夜綱を川に投げ込んで終了する(写真6)。
下野敏見氏は泊十五夜のオドリクヤシ(踊り壊し)を次のように解き、十五夜行事が死と再生のモチーフにちなむ健康祈願・豊作祈願の行事であると述べている〔下野2005、271〕。
十五夜の綱は蛇の象徴であり、オドリクヤシはオドリの輪や列を蛇と見ての"断ち切り"である。欠けてもまた満つる月や脱皮しても再生する蛇は、永遠不死の存在であり、こうして人々は仲秋の名月に健康祈願を祈るのである。それに月は夜の霜が降り、蛇は水の主でもあって、月と蛇を祈ることは雨乞いに通ずるもので、豊作祈願の趣旨もある。
記録動画:泊の道伸べ式綱練り - YouTube
南さつま市大浦町
昭和30年(1955)頃まで、県道
材料集め コニセ(小学生)が、農家から早期米の
綱作り「ツナネイ」 十五夜の綱は本体の大綱・先頭につける「ドロボんヅナ」・引き縄となる「マムシのビンタ」の3つから出来ていた。大綱は、藁束を道に置き、両側から逆向きによじり、つぎ足し、カズラをまいて締め、直径20~30cmの綱を3本作る。3本の綱を道に置き、両側から逆向きに転がしながら直径70~80cmの太い綱にする。特に器具は使わず、手と足とで太い綱を作る。芯は入れない。太綱ができると引き縄をかけまわして締める。ニセ・コニセを中心に、集落の年配者も参加してツナネイ(綱練り)した。出来上がった綱は、道路にトグロ状にして置いておく。
先綱は、直径7cmほどのロープ状の藁縄で、片方の端を大綱に差し込む。長さは20mぐらい。この綱を作る時は、樫の木を2本交差して差して回転させ、締めていった。先綱をドロボんヅナ(泥棒の綱)と呼ぶが、「日暮れまでかかってコニセがようやく作った綱を、ニセ衆が隠し、それをコニセが見つけ出さなければ家に戻れなかった」ことにちなむ。また、藁は藁ッゴロ(藁打ち槌)でたたいて梳くが、厳しいニセの検査で合格できないと、何回も藁打ちさせられたという。引き縄は、マムシのビンタと呼び、長さ3m・直径5~6cmぐらい、カズラだけで作った縄で、両端を輪にしてある。輪の直径は30cmぐらい。大綱に巻きつけ片方の輪に通し、大綱を締める。もう片方は太綱から延びて引綱となる。引綱は何本も作る。マムシのビンタ作りもコニセの役で、うまくできていないとニセに叱られた。
綱引 十五夜当日の夕方、子供たちが引綱(マムシのビンタ)を肩に担いで、歌を歌いながら集落内を触れて回った。掛け声は、まずコニセ頭(6年生)が歌い出し「十五夜よーい」を歌い、全員で「よーんせー」と合唱する。
「十五夜ん、よーい」「よーんせー」
「やン、また、ソーラー」「よーんせー」
「ソーラー引ーけー」「よーんせー」
そのあとに、「オンジョも、猫ん子も加勢し来んな!」と続いた。
月が出るとトグロ状にして置いていた綱を道路に引き伸ばし、先綱のほうを集落のおじさん、おばさん、女の子が引く。大綱のほうは、青年とコニセが引く。
途中で引き綱の外に出ているほうの先端の輪をダンギと呼ばれる杭にひっかけて、それ以上引かれないようにする。ダンギは事前にニセが道路脇に、頭を40cmほど出して打ち込んで、草で覆って隠してある。何本か打ってあり、かけては外し、少し引くと、また次のダンギに掛けてと、簡単には勝負がつかない。3回目ぐらいで決着する。勝ち負けどうのというより、親睦を深める楽しい集落行事だった。
綱の処理 終わるとバラして、敷草として各家に分けていた。
南さつま市坊津町
材料集め 草野では、運動会用のロープと茅を用いて、大綱を練る。1週間ぐらい前から、学校が終わった夕方3時ごろから、山へ茅を引きに行って、集落の南方、県道脇のナカヤネという集積所に集まって、先がとがった俵状の茅束を作る。草野だけでは集まらず、茅野(かやの)など近隣の集落も回って取ってきた。
茅束は芯に270cmのカラダケ(マダケ)を入れ、先にススキを差し、高さは4mにもなる。もともとは子供たちがしていたが、今は青壮年が中心である。
今から帰るという連絡をして、お久米口説き(草野では「オツヤクドキ」と呼ぶ)の歌で、公民館(かつての青年舎)まで茅俵を背負って登ってきた。小さい子供には簑笠(みのがさ)風にしたソラヨイの衣装のようなものもある。公民館に到着すると、歌い上げを行いながら5、6回庭を回り、最後に一斉に倒れこんで、集落民の喝さいを浴びる。それでこの日の茅運びが終わる。
大綱の芯になるロープは、かつては藁で、これも毎日子供たちが、去年の藁を各戸からもらい集めて、青年の厳しい指導のもと、夜に藁ッゴロで打って、作っていった。綱にするのは十五夜当日である。
綱作り「ツナネリ」 茅は、公民館で、下をくくった長さ1.5m、直径8cmほどの円筒形の束に分ける。平成25(2013)に調査した時は、20人ほどで200本はあった。まず39本の束(下から3・5・7・9・7・5・3本)をロープでくくり、そこに5本の藁縄を結ぶ。その縄1本ずつに先ほどの茅束を三つ編みにしながら練っていく。完全に練り込むのではなく、くくった側が外にはみ出し、ムカデの足のようにだんだんに伸びていく。5本の足ができると、その端を5人がもって、1人が一つ飛ばしに飛び越えて、ぐっと引っ張る。それを繰り返し、1本の大ムカデ綱にする(写真7・図4)。実測したものは、長さ8m20cmであった。出来上がると、櫓を組んで、それにかけて、ロープを巻きつけ目玉状にし、目玉からムカデの足が伸びているように垂らして、月に供えた(写真8)。
綱引 綱引は、かつては公民館の下の通りに引き出してしていた。ロープのほうを一般と子供たちが、茅のほうを青年が担いだ。青年は青年舎で飲んでいるので、子供たちは一斗缶をたたいて「やるぞー、早く降りてきてー」と呼び出す。青年たちは水をかけて囃した。
青年はお久米口説きを歌いながら綱を櫓から下ろして出す。青年は茅が重いので肩に担ぐ。子供たち側の藁は乾燥しているけれども、青年側の茅は生だから重い。重いし負けるから、昔はダンギという杭にくくりつけて、引かれないようにした。ダンギは、道路が舗装していなかったから、杉などそこらにある木を柱にして、道路に打ち込んだもの。木が生えていたら、それに結び付けてもよい。一度は、一ッ葉(イヌマキ)の木に結んで、ひっ壊したこともあった。子供たちも多かったから、青年も負けないようにした。昔は先輩に絶対服従だったから許されたが、今は、子供たちに「あーインチキだー」と言われるだろう。場所変え(東西)をしようとかいう声もあったが、バレるから変えなかったという。青年が東側。子供が西側。
今は公民館の庭で、東側のロープに子ども、西側の茅に壮年がつく。お久米口説きの拍子「やっとこせー」で、東西に引き合う。一勝負終ると、「綱をくいやい」と子供たちが声を上げて綱引再開(写真9)。
綱の処理 終わったら、茅をまいて、相撲大会をしていた。今は3回ほど引きあって綱引を終り、公民館で反省会(ゲーム大会・飲み会)となる。綱は後日、蜜柑園の敷草として使う。
記録動画:十五夜綱引き(草野) - YouTube
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