水車からくり 目次 / 1はじめに / 2川畑 / 3平山 / 4西元 / 5郡 / 6東別府 / 7結び / 写真 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME
←[川畑の水車カラクリ]
*川辺郡川辺町大字平山横手町(井手ノ元集落)(かわなべ・ひらやま・よこてまち・いでのもと)
川辺町市街地東端の横手町にある井手ノ元水神でも,戦中まで竹田神社と同規模の水車カラクリが六月灯で行われていた。
水神は現在,万之瀬川に掛かる国道225号線広瀬橋北側の,水門の上に祀られている。この水門は,万之瀬川の水を平山・田部田地区の水田に引き込むものであるが,用水の完成年代はよく分かっていない(注2)。水神は少なくとも3度移されている。まず,大正6年の洪水に伴う災害復旧工事で,その翌年水門南側の中ノ島公園に移されて祠が立てられた。そして国道改良による昭和38年の広瀬橋の掛け替え工事前後に,現在地付近の土手下側に移されている。水車カラクリは,この間戦前までこの中ノ島で上演されていた。昭和13年から昭和36年までの寄付帳等を収めた水神講の講箱が,横手町小組合長に伝わっている。現在は7月16日に祭典行事のみを行っている。〔写真3〜7〕
現在の石祠は,高さ115センチメートル(台座含む),正面に「水神」,右に「大正七年七月」,裏に「堰堤改造」,左に「講中」の文字が彫られている。祠中央の穴に収められた神体の石には「水神」の文字がある。台座は新しいコンクリート製。側に大正7年の堰堤改築記念碑が立てられている。
[図2 井手ノ元水神付近(戦前)] 26.3KB
●概 要
旧道のころは広瀬橋のたもとに,中ノ島という島の公園があって,そこに水神様をお祀りしていた。イデンモトのスイジンサァという。その六月灯で用水路にカラクリが掛かった。
●人形作り
加世田と同じぐらいの大きさの人形を作っていた。
●舞台掛け
舞台は常設ではなく,六月灯のために用水路に舞台を掛けた。
●上演方法
平山区の河原町かわはらまち・横手町などが主催していた。テーマは弁慶など。
●付随伝承
カラクリは戦中まであった。その後もお祭りはあったが,昭和35年頃だったか中ノ島のところに新しい広瀬橋がかかって移転したので,余興はやらなくなった。この用水は平山地区から田部田地区の田んぼを潤している。
●概 要
用水に太鼓橋をかけた中ノ島という公園があって,旧6月16日に一帯で水神祭
りをしていた。戦前まで毎年そこで舞台を組んで水車でカラクリを回していた。
●人形作り
加世田の人形は見たことはないが,知覧のものよりは大きかった。等身大の2/ 3ぐらいの大きさの人形を作っていた。
●舞台掛け
たたみ3畳ぐらいの回り舞台を前日ぐらいに用水路にかけていた。
●カラクリ
人形が舞台の上をくるくる回るだけ。水車は普通に回っていたが,歯車があっ たかどうかは覚えていない。
●上演方法
夕方からお祭りが始まる。演題は船に乗った那須与一の扇の的や,馬に乗った何かもあった。一度作ったものは何回か使い,数年に一回新しいものを作っていた。漁師仲間,川原町・横手町・向江町の3小組合,平山・田部田の水利組合が主催。
●付随伝承
水神は3度場所を移している。@最初は今の場所から70〜80メートル上流で祀られていたと言われる。御神体は石だけ。A大正6年の水害で井堰が壊され,7年に災害復旧したときに併せて中ノ島公園に移された。最初は魚捕りの人々だけで祀っていた。自分の父もその一人。B昭和40年頃広瀬橋の架け替えで中ノ島が橋脚の下になり,今の場所から1メートル下側のところに移した。C昭和47年頃近所の人が次々に10人も亡くなり,宮集落のホイドン(神官)に集落の者で理由を尋ねに行ったら,「祟りではないが,もう少し水神さんを大切にお祀りするように」と言われ,今の場所まで上げて祀るようになった。その時に御神体の石にも「水神」という文字を入れた。
この水神の六月灯は,以前は平山で一番賑やかな夏祭りだった。魚捕りの人々で祀っていたが,後に横手町・河原町の小組合,平山・田部田の用水の水利組合も主催者に加わった。さらに向江町は料亭街で「水商売だから」ということもあり,加わるようになった。昔は旧暦の6月16日だったが,新暦に読み替えると日にちが毎年変わってしまうので,戦後新暦7月16日に変更した。中ノ島のころは向江町側から花火を上げたり,踊りなどもあった。国道に縁日の出店が出るので,警察に許可をもらってやっていたが,だんだん難しくなり,昭和36年頃には余興は取りやめ,今は祭典だけになっている。カラクリは自分が戦争から帰るともうやっていなかったので戦中に途絶えてしまったと思う。
今は横手町が管理しており,毎月の集落の清掃のときに草取りをするのと,ハナコ(花香)という役があって月に2度お花を代えたりしている。今は澱粉工場の人も,水を使うというので花をお供えしてくれている。
横手町は戦前は井手ノ元集落と呼んでいたが,戦後,字名をとって横手町に集落名が変わった。お祭りは水神講とも呼ばれていて,昭和13年から36年までの寄付帳が入った文書箱もある。
[西元の水車カラクリ]→