水車からくり 目次 / 1はじめに / 2川畑 / 3平山 / 4西元 / 5郡 / 6東別府 / 7結び / 写真 |鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME
←[西元の水車からくり]
知覧町市街地(郡地区)は,万之瀬川の支流麓川に沿って,上郡の武家屋敷保存地区から中郡の商店街へと続く。
東から上郡・中郡・下郡に別れ,カラクリの残る豊玉姫神社は下郡にあたる。その他,中郡の招魂社,大心寺,上郡の恵美須神社,射場堂,伊勢神社でもかつてカラクリが行われ,射場堂と伊勢神社以外は,水車を用いた。『知覧町郷土誌』には次のように記されている。
招魂社・豊玉姫神社・伊勢神社の六月灯にはよく「カラクリ」というのを作ってあった。それには猿蟹合戦・弁慶と牛若丸・熊谷直実と平敦盛・桜井駅の楠公親子・桃太郎の鬼ケ島征伐など,それぞれ人形を作って水車で動かしていた。伊勢神社のは人力であった。カラクリは,ほかに大心寺,光寿寺,上郡中園の射場堂の六月灯にもあった。(注8)
*川辺郡 知覧町 大字郡 中郡地区 中郡上集落(かわなべぐん ちらんちょう こおり なかごおり なかごおりかみ)
招魂社は,明治2年に戊辰戦争の戦没者を遺族が西福寺跡(島津墓地,写真15)で祀ったのがはじまりで,明治17年社殿が立て直され,西南の役,日清,日露,太平洋戦争の殉死者が祀られきた。戦後護国神社となったが,昭和30年に敷地が町営住宅用地となったため,豊玉姫神社に移され,同34年に現在の特攻平和会館そばで祀られるようになった。夏祭りは7月28日である。(注9)
招魂社のあった場所は,豊玉姫神社水車カラクリの動力源でもある花井手用水に接し,市街地の西端にあたる。村永薫委員の調査によれば,「招魂社の六月灯で,用水にやぐらを組み,水車カラクリがかかっていた。明治30年生まれの人が15歳ごろまであった」という。また,松田誠委員の調査によれば,「カラクリは神職の人達が手伝いをしていた。舞台は掘立小屋で周囲は杉の葉で飾った。昭和16年頃にもあった」とも聞き書きされている。明治末に一旦途絶え,戦没者の年忌や紀元2600年記念などで,何度か復活を見ているのかもしれない。
伝承資料F
戊申戦争や西南戦争の遺族や家族,生存者たちが作った招魂社が西福寺の跡にあった。護国神社となった。当時は一帯が公園になっており,そこで水車カラクリがあった。
*川辺郡 知覧町 大字郡 中郡地区 中郡上集落(かわなべぐん ちらんちょう こおり なかごおり なかごおりかみ)
大心寺は中郡上地区にあり,東側は花井出用水を挟んで麓川の堤防になっている。花井出水門が間近にある。
この寺は大谷派に属し,明治14年現在の場所に説教所が開かれ,大正7年龍泉山大心寺となった。大心寺は明治から昭和55年までに125人の在勤がつとめている(注10)。境内には池があり,小さな滝がかかっている〔写真13〕。六月灯に上演されたカラクリ(注11)は,この滝を利用して水車で回したものか,手回しアヤツリであったかは,はっきりしない。また,上演された年代も不明である。
伝承資料G
池の滝に水車を作ってあったように記憶しているが,「手回しであった」という話も聞いた。
伝承資料H
カラクリの話は聞いたことがあるが,自分が来る前のことでよく分からない。
*川辺郡 知覧町 大字郡 上郡地区 字仮屋園(かわなべぐん ちらんちょう こおり かみごおり かりやぞの)
恵比須神社は,町立図書館の南側,永久橋のたもと,花井出公園にある。郷土誌によれば,まず明治24年に商家が中心となって永里野町(野町は旧鹿児島藩における商業集落呼称)にあった恵美須神社が,中郡に移されている。さらに同43年上郡光寿寺の西に,上郡の恵美須神社が建てられた。ところが中郡の恵美須は大正3年の大火で類焼を受け,同8年上郡の恵美須が現在の場所に移る際,中郡恵比須神社も合祀された(注12)。
伝承では,商工会の主催で水車カラクリがあった。
伝承資料I
●概 要
戦前まで知覧商工会が主催して,7月15日の夏祭りでカラクリがあった。
●人形作り
人形は今の豊玉姫神社のカラクリ人形より一回り小さいものであった。昔は豊玉姫神社も同じぐらいだった。恵美須は豊玉姫神社のものを借りて来ていたのかも知れない。
●舞台掛け 舞台を作り,水車で回していた。
*川辺郡 知覧町 大字郡 上郡地区 字中園(かわなべぐん ちらんちょう こおり かみごおり なかぞの)
射場堂(イバンドウ)は,武家屋敷群の中央付近,国名勝知覧麓庭園の一つ佐多美舟家屋敷内にあった。屋敷の東側に祠があったらしく,現在でも竹林の中に石灯籠の一部などが露出している〔写真23〕。明治43年に(5)の伊勢神社へ合祀された宮毘神社(創建年,祭神不明)(13)が,この射場堂(佐多美舟氏の伝えるヒミ神社〔伝承J〕)のことであると思われる。
村永委員の調査によれば,
「7月6日の六月灯で行われていた。手押しでやっていたという。イバンドウは門レベルの神様。ここのカラクリは,明治時代までは毎年あったと伝えられている。人形は上郡の青年団が隠れて秘密で作っていたと言われ,出し物はその日にならないと知らされない。9日の豊玉姫神社のカラクリと競っていたという。正月のハマメーボーや,八月十五夜綱引きのように,上郡と下郡の青年が競う」
という。
[図5 射場堂からくり舞台配置図] 19.5KB伝承資料J
●概 要
お祭りが大変賑やかで,カラクリもやっていたと聞いたことはあるが,実際どのようにしていたのかはもう分からない。
●付随伝承
屋号はナカンヒガシと言われる。中園の東という意味。
屋敷の北東にヒミ神社というのを祀っていた。卑弥呼を祀ったものだと聞いたことがある。参道には灯籠などがあったようだが,今でもいくつか破片が残っている。その辺りからは,タケノコを掘ると割れた土人形や,大きな有田焼の壷などが今も出てくる。自分が嫁いできたときには既に伊勢神社に合祀されていた。
*川辺郡 知覧町 大字郡 上郡地区 字桜ノ元(かわなべぐん ちらんちょう こおり かみごおり さくらのもと)
伊勢神社は,上郡の南にある丘の中腹で祀られている。県道知覧喜入線から数十メートル参道を上ったところである。境内にある昭和49年の改築記念碑〔写真20〕によれば,「主神は天照大神で明治43年愛宕神社(字打水比良)菅原神社(字天神比良)宮毘神社(字中園)山神神社(後岳)の4社を合祀した」ものである。打水比良は中郡北,天神比良は下郡,中園は上郡にある字名である。
ここでは戦後しばらくまで,社殿西側で手回しカラクリ(アヤツリ)が上演されていた。
[図6 伊勢神社からくり舞台配置図] 21.9KB
伝承資料K
●概 要
自分も7月16日の六月灯で,人力のカラクリをしているのを見た。戦後も何回かやっていたように記憶している。
●舞台掛け
社の西の低いところに,小さな舞台が掛かった。
●カラクリ
手回しであった。自転車のタイヤぐらいのものを人が回していたのを垣間見た。
●上演方法
戦後復員で青年が増えた時期,7月16日の六月灯に何回か行われていた。毎年ではない。ほかに踊りなどの出し物もあった。
●付随伝承
伊勢神社は下郡にあった天神と,伊勢,山の神,その他1社を合祀したもの。
終戦当時の青年団長に確かめたが「戦後はなかった」とのことで,昭和一桁までだったかもしれない。
また,「伊勢神社の六月灯は,本町の上の組と下の組が,毎年交互に当番をし,お重を持ちよって祝賀した」とも聞いている。
伝承資料L
●概 要
7月16日に戦前も毎年ではないがあった。戦後は2回ほどあった。
●カラクリ
足踏みみたいなもので人力で動かしていた。
●付随伝承
伊勢神社は郡区が氏子になっていたので,郡の青年か集落が中心になってやっていたのではないだろうか。
[東別府の水車からくり]→