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知覧町西部の上別府地区(大字西元のうち)には,二つのカラクリ(アヤツリ)があった。動力源は手回しであるが,小型人形の細工や舞台装置は,豊玉姫神社のものと似ていたようである。伝承されていた二つの神社は,いずれも豊玉姫を祭神としており,取違では人形も下郡の豊玉姫神社と貸し借りをしていた。
なお上別府は,昭和40年代に峯苫・中原・堂園・取違の各集落が合併して作られた新しい行政集落である(注3)。主として台地上で畑作を営む。
*川辺郡 知覧町 大字西元 上別府集落 峯苫地区(かわなべぐん ちらんちょう にしもと かみべっぷ みねと)
峯苫は知覧町中部の西の端にあたる集落である。
カラクリが伝承されていたのは,集落氏神(ウッガン。旧鹿児島藩の村落組織「門」レベルの神)の境内である。氏神の南側には公民館(峯苫集落センター)があり,境内はゲートボール場になっている。集落氏神(注4)は,北を背にして南を向いており,豊玉姫と集落氏神の二つの祠が祀られている。カラクリの有形資料は残されていない。
[図3 峯苫氏神からくり舞台配置図] 14.8KB
伝承資料C
●概 要
「7月16日,氏神様の六月灯には,キャタピラ式回転ベルトに,厚紙で歩兵や騎兵,野砲などを作って,キャタピラに立てて並べそれを回し,野原や山を作り,その間を走らせて子供をよろこばせた。」(注5)
●人形作り
カラクリは7,8人の青年が何を作るか決めて,作った。
人形は兵隊や馬など。顔はボール紙を切って,色紙を張ったもの。胴体は箸みたいな細い木の芯をいれて,適当に切った稲藁や麦藁を巻く。木で作ったり,綿をいれるものもある。各々で工夫したが,たいがいボール紙で作れた。
人形は公民館の天井のうえに保管していたが,今はもうない。
●舞台掛け
準備は2,3日くらいだと思うがはっきり分からない。半端でやることもある。
舞台は屋根も柱もなかった。切って来た杉の葉を割り竹に挟んで生け垣みたいな垣を作り,舞台の前のほうだけ40cmぐらい付けていた。高さは人形によっても違う。
●カラクリ
キャタピラに人形を乗せて下から手で回す。カタカタカタと音を立てながら動くのもあった。
爆竹をキャタピラに仕込んでおいて,それが破裂するときに兵隊が倒れるようにような仕掛けもあった。
●上演方法
夕方とばりが下りたころ(7時30分くらい)からしていた。電気が点灯する時
間までやった。青年団が中心になった。
●付随伝承
青年団は25歳まであった。
六月灯には,青年団が高さ3尺ぐらいの少し大きな「奉寄進」と書いた灯籠を作った。灯籠は,馬や兵隊の絵を描いたものを各戸でも作った。回り灯篭になっていた。
(2) 取違氏神
*川辺郡 知覧町 大字西元 上別府集落 取違地区(かわなべぐん ちらんちょう にしもと かみべっぷ とりちがい)
取違は,中原・堂園を挟んで峯苫の東の位置し,同じく台地上の上別府集落に含まれる。
この取違には地名由来伝説がある。豊玉姫と玉依姫の姉妹が,枚聞神社(鹿児島県揖宿郡開聞町)から川辺と知覧をそれぞれ領すために向かう途中,ここで休み,知覧へ行く予定の玉依姫が川辺へ向かい,姉の豊玉姫が知覧に向かった。その場所が取違であるという(注6)。境内には伝説碑も立てられている。
手回しカラクリが伝承されていた場所は,その豊玉姫と薬師如来を祀った集落の氏神(注7)の境内。境内の北側に社があり,南側に公民館,東側に銀杏の木がある。西側は道路に面している。公民館は,以前は青年倶楽部と呼ばれ,カラクリの人形作りもここで行われた。舞台はこの青年倶楽部を背にして掛けられていた。人形などは残されていない。
伝承資料D
●概 要
トイタゲのカラクイ(取違のカラクリ)は,7月8日の六月灯の1夜だけ,取違の氏神の境内にやぐらを作って,豊玉姫神社みないなカラクリをしていた。境内の大銀杏と公民館(昔は青年小屋)の間でやっていた。
●人形作り
人形製作は,1カ月ぐらい前から自分たちの道具を持ちよって,思いおもいに作る。雑誌などを見本にしていた。人形は豊玉姫神社のものより少し小さめで,20cmぐらいが普通だった。大きいものは35cmぐらいのものもあった。また,馬に乗った人形もあった。
人形は木で作り,着物を着せる。材料は削るときに削りやすいように桐の木などを使う。堅木でも早いうちはまだ柔らかい。自分たちも木を削って顔を作り,絵の具で目をいれたりして人形を作った。人形の髪の毛や髭は,馬のしっぽの毛やシュロ皮でつくった。同じ毛でも栗毛にしたり,いろいろ変化をつけた。手足と顔は奇麗に作る。首(頭)は上から差し込む。必要があれば背中に割り目をいれて,糸を通す。
人形は1回の上演に4,5体を使った。2日ぐらい前から動かす練習をする。板張りの舞台なので舞台下から上は見えず,年上の青年が外から見ていて,「とめろ」とか「まわせ」と指示しながら練習する。
馬などは公民館の戸棚に保管して再利用もしたが,今は残っていない。人形はデメジン(大明神。下郡豊玉姫神社)と貸し借りなどもしていた。
●舞台掛け
間口9尺(1間半),奥行き・高さ1間ぐらいの舞台を2,3日前から組む。
舞台には,観客から舞台下が見えないように,運動会の門のように杉の枝を組んだりした。舞台下は,青年の人が中に入れるくらいの高さ(160cmぐらい)あった。
また,舞台には山から苔を取って来てそれを敷いたりもした。
●カラクリ
5,6人が舞台の下に入り,手で持ち上げたり,紐を引っ張ったり,くるくる回したりしていた。ころをつけて走りやすいようにして,前後に動かしたりするカラクリもあった。腕は切りかかるように動くものもあった。
●上演方法
15歳から25歳の青年が上演する。年少者が舞台の下に入って動かしていた。上演は無言で,音楽も説明もなく,ただ人形が動くだけ。明かりはロウソクだけだった。六月灯の灯籠が何本も立っており,その薄暗い中でする。
扱うテーマは特に決まっておらず,年々で「今年は那須与一をしようか,牛若丸をやるか」というような感じ。
●付随伝承
始まった由来はわからない。ずーと昔からある。
露店は地元の2軒だけが綿飴とかあめ玉を売る店を出していた。霜出などよそからも見物に来ていた。寄付とか慰労のためのお金はどこからも出なかった。戦後昭和22年頃まであった。戦中も続いていたが,昔みたいにいいのはできなかった。今は青年団がないので,青年だけで自主的に復活することはできなくなっている。
取違集落の氏神であるこの神社には,二つの祠が納めてあるが,左が薬師如来で右側が豊玉姫。両方ともこの日が六月灯。
伝承資料E
●概 要
カラクリは二階建てのやぐらを作り,下で回す。7月8日に取違の神社であっ た。ニワカや踊りなどもあった。
●人形作り
カラクリの準備は人形の補修をする程度で,頭とかは1〜2週間公民館に夜集まって作った。公民館は昔は青年倶楽部と呼んでいた。
人形は木の芯をいれた藁人形に,衣装を着せたもの。頭は桐で作る。使った頭は公民館に保管してあったが,公民館が焼けて取り壊すときに処分したのではないか。頭は,テーマがまた回って来たときに使っていた。
●舞台掛け
舞台作りをブタイガケと言い,ニワカをやらない青年全員で1間半四方のやぐらを作った。だいたい若い人が舞台掛けすることになった。舞台の下は大人が入れる高さ。
孟宗竹の柱が四方にあり,後ろ(公民館側)は木の枝などを利用して背景を作っていた。観客は3方向から見ることになる。集落有の桧山から苔を取って来て,舞台に敷き演出に使ったりした。
●カラクリ
舞台の下には若い人5,6人が入って,人形を回したりして動かした。終戦間もないころ,竹筒を利用して水車を回したことがあると聞いた。自分たちの時代には畳の紐であやつりをしていた。牛若丸の場合は,舟に弁慶を乗せて,引っ張って動かした。そして紐を引っ張ると刀が上がるようになっていた。糸で引くほうが古い。
●上演方法
15,6歳のころ那須与一をしたことがある。扇子を投げる。他には牛若丸と弁慶 など。
上演は,無声でする。
●付随伝承
祖父の時代からずっとあったと伝えられている。祖父は85歳で昭和15年に亡くなっている。昔は青年団活動が活発だったから,豊玉姫のカラクリをまねて,取違の青年たちが始めたのではないだろうか。
六月灯にはカラクリのほか,青年団が踊りを奉納していた。出店が出て,他の集落からも見物に来ていた。戦中は自分が兵隊に行っていたので分からないが,それまでは毎年あった。昭和23年に戻ったときにはやらなくなっていた。
昔は豊玉姫神社も取違と同じ7月8日に六月灯をしていたが,いつも雨が降るので豊玉姫の方は9日に変えたという。神社の神様は右が豊玉姫。その侍女にお医者さんがいて,それを祀ったのが左の薬師如来。安産の神様になっている。
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