薩摩半島の十五夜行事 綱引き・綱引きずり・ソラヨイ・まとめ |十五夜トップ - 鹿児島の民俗 - 薩摩民俗HOME|
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先に指宿地方の事例で紹介したワラ帽子を被る習俗が、冒頭につづったソラヨイの装束に似ていることはお気づきのことと思う。
十五夜の夜、ワラで作ったカサ・ミノ・ハカマを付けた子供たちが、「ソラヨイ、ソラヨイ」と唄いながら、地面を踏みしめ、月と大地に感謝する行事だ。
――十五夜綱の材料となるカヤは、かつては8月1日から集め、それをカヤタチと言った。カンネンカズラ(くずかずら)を芯にし、ワラも加えて綱ねりをした。綱引の後にソラヨイ。
ソラヨイの衣装は、カヤではなくワラ。ワラで作った円錐形の笠(ヨイヨイ笠)と腰蓑。小学校高学年は、笠に垂れが付いた大きなヨイヨイ笠を被る。低学年の笠には垂れがなく、腰蓑も巻かない。
十五夜当日の夕方、子供たちは、集落に十五夜ソラヨイの始まりを触れて回る。このときの掛け声は、「今夜来んと、明日の晩な、麦藁三把、松明五丁、ホーイホイ」。
ソラヨイ会場に到着すると、ヨイヨイ笠を被り直して、南側から入場。中央にはヤマカサ(山傘)と呼ばれるワラコズミ(藁積・藁にお)状のものが立っている。ヤマカサには14歳の子供組の頭が入り、時計回りにゆっくりと回しながら、ソラヨイの子供たちに指示を出す。子供たちは触れ回りのときの掛け声で、ヤマカサを中心に反時計回りに進み、円陣になって、列を整える。
列が整うと、ヤマカサの中から指示が出され、子供たちが「サァー、ヨイヤン、ソーシッ、ソーラヨイ、ソーラヨイ、ソーラヨイヨイヨイ」と唄い、手を2拍たたく。唄う場面では、四股を踏むように、力強く大地を踏みしめる。終わると周廻し、また唄う。
3回目は、「サァー、ヨイヤン、ソーシッ、ナカヨイ、ナカヨイ、ナカヨイヨイヨイ」で、一斉にヤマカサを崩しにかかる。「入場→周廻(左回り)→ソラヨイ(四股。2回)→山傘崩し→退場」を3セット繰り返す。3セット目の山傘崩しで、ヤマカサは完全に壊され、ソラヨイの子供たちは意気揚々と退場していく。行事が終了すると、ヤマカサは現在は軽トラックに乗せられて退場。この後、相撲大会になる。
同じく南九州市知覧町の打出口では、この行事を十五夜ドッサーと呼ぶ。触れ回り、綱引、ドッサー、相撲の順に行われている。中福良よりもテンポよく(やや早口ぎみに)「ドッサードッサーサ」「ソラヨイソラヨイヨイ、ソラヨイヨイヨイ」と繰り返す。ヤマカサはなく、土俵の回りを踊りながら回るだけだが、中福良のような演出性は希薄で、より古風な姿を残しているように感じられた。
また、知覧町迫瀬戸山のものも拝見したが、こちらは女子生徒も加わり、元気の良いソラヨイを見ることができた(ここでも、もともとは男の子供だけの習俗)。
ソラヨイは現在では、中福良、浮辺、打出口など数か所のみに残っているが、小野重朗氏が昭和30年代に調べられた時には、大字永里と瀬世のほぼ全域と、東別府の一部の集落24集落であったことが報告されている〔小野1990、221〕。
「ソラヨイ」という言葉の意味は、先に津貫中原の綱ない習俗でも紹介したように、「それっ、よいしょ」という掛け声であることは、すぐに気づく。また、小野氏は次のように検討を加えている。
「子供たちが山を下るとき、村を巡るときにもしばしば唱える言葉で、単なる囃子詞ではなくて、農作物の出来や、村の生活が良いことを約束し、祝福する言葉と思われる。ソラヨイはそうした土地儀礼であり、祝福儀礼であって、相撲の原型ともなっているものと思われる。ソラヨイの中に見られるような土地を踏みしめる豊穣祝福の儀礼が、一方には芸能化してソラヨイになり、一方には競技化して相撲となったとも考えられる」〔小野1990、232―233〕
知覧町中部で行われた十五夜行事の構造を示すと、@材料集め→A綱ねり→B綱引→Cソラヨイ+相撲となっていることが分かる。
先に上げた指宿のカヤ被り事例は、材料集めの習俗であったが、ソラヨイは相撲の前に行われている。このことはソラヨイが相撲の予祝儀礼となっているものと言える。
さて次に、さまざまな材料集めの習俗について、見ていくこととしよう。
一般に、十五夜行事は、豊作に感謝する願いが込められていると言われる。しかし、今のように早期米が盛んでない時代、どうやって十五夜にワラを集めたのだろうか――そんな疑問を、ソラヨイを始めて見たときにいだいた。普通作では、まだ稔りの秋には早い。
川辺町を調べていたときに、その答えに気づいた。十五夜綱にカヤを用いることだ。また家での供え物は、稲の豊作に感謝するのではなく、「稲がよくできるように」供えるものという。
十五夜綱は、くずかずら(方言名カンネンカズラ)を芯にして、カヤまたはワラをない合わせて作られる。カヤを集める習俗は、カヤ引き・カヤ束作り・カヤ下ろしという3つのグループに分かれる。まず最初にカヤ引きの事例を見ていこう。
――昔は子供組の頭が中心になって子供たちが山からカヅラを取り、カヤを集めてきた。十文字(十字路)で青年が1抱えもある綱をなっていた。引きやすいように短い横綱を作る人もあった。綱引は十文字の道路で引いて、その後研修館(公民館)前で相撲をする。
家での供え物は、良いお米がたくさん取れるように、縁側のお月様の見えるところに花、団子、ススキ、萩、栗やごちそうなどをお供えした。昔は臼の上に箕を置いて、その中に里芋やカライモ(薩摩芋)などの初物を升に入れてお供えした。
――綱の芯にするカンネンカズラは子供が1週間くらい前から山に取りに行った。これを芯にしてカヤをなっていった。大正の終わり頃からワラに替わった。カヤの時代には山に取りに入ったり、畦畔に生えているものを用い、それをカヤヒキと呼んでいた。ワラに替わったのは、養蚕が盛んになり子供にも加勢させたのと、山などに行くのが危ないということなどが理由だろう。
ツナネリは子供のカシタ(頭)が芯をもって、その周りにカヤを二才がなっていった。できあがると、道に渦巻き状に綱をおく。二才がそれ解き、青少年対親などで引き合う。これが終わると綱を土俵にして相撲を取った。
南さつま市坊津町では多彩なカヤ束作り・カヤ下ろしを見ること出来る。筆者調査の事例から見ていこう。
――上之坊では十五夜行事で使う茅を束ね、「番茅」を作る。その番茅を山から下ろす時、青年が山の上で松明を灯し、それを回して集落に知らせる。この火とぼしでは、「十四が甘かで塩まぶせー(14歳の子供頭が頼りないので、塩をまぶせ)」「火が燃えたかー」と叫ぶ。また他の伝承では「十四が甘かで火を回せー」「火が見えたかー」と叫んでいるとも言われる。いずれの解釈が元々のものかは、定かではない。
火とぼしが終わると、坂の途中に置いてある番茅を背負い、十五夜唄「お久米口説き」を歌いながら、綱練り(綱ない)会場となる公民館まで下ろす。行列は、青年の担ぐ1番茅・2番茅・3番茅…から、子供たち、最近は還暦を迎えた壮年と続く。
公民館に着くと名乗りを上げ、「ほんにょーい」の掛け声で公民館の坂を駆け上がる。「ほんにょーい」は、「本に良い」という意味とともに、「アラッ、ヨイショ」という掛け声にもなっている。現在は旧暦8月11日に行うが、かつては十三夜の行事だったという。(以下前述の綱引・お月さまの輪作り参照)
――坊津町平原のカヤ下ろし習俗には、「カヤカブリ」と、数日おいて行われる「カヤカル」がある。カヤカブリは茅被り、カヤカルは、茅からい(茅背負い)の意味。いずれも十五夜綱の材料となる茅を、山(今は麓の集積場所)から綱ない会場の公民館に運ぶ時の習俗。
カヤカブリの作り方は、@長さ1.5メートル程に束ねられた茅の上部をくくり、裾側を広げる。Aカヤカブリになる子供が頭を下から入れて立ち上がる。B上部を整えて完成。
カヤカブリの行列では、二才衆(青年)が十五夜唄の「お久米口説き」を歌いながら伴走する。その声にカヤカブリ衆は威勢のよい相の手を入れる。綱練り会場となる公民館に着くと、歌い上げでカヤカブリ衆がグルグル回って到着の喜びを表現する。
カヤカルは、茅の俵を背負って運ぶ。俵状の茅(カヤの苞の中に藁をつめて、背負い縄を付けてある)に、飾りとしてハギ・ホウライチク・方言名オオススキなどを差す。高さは4メートルにもなる。重すぎて泣き出す子供もあった。
13日に綱ねり。15日は夕方から子供たちがシベ笠を被って、集落内を回る。
――鳥越では十五夜1週間前、朝から十五夜綱の材料となるカヤを集めるカヤヒキ(茅引き)、カヤスボイ(茅すぼい)があり、「ヨメジョ」(鹿児島弁でお嫁さんの意)と呼ばれる俵状のカヤの束を作る。ヨメジョは季節の花や、ススキなどを美しく飾る。
日が暮れると、このヨメジョを集落に下ろす合図として松明を灯し、火とぼしをする。この松明の明かりを先導に、ヨメジョが、谷川橋上側の三叉路に下りて来る。ヨメジョは今は3体だが、かつてはもっとたくさん作られてた。
ヨメジョを集落に降ろす途中、路上で青年たちが手をつなぎ、口説きを歌って迎える。手を左右に引き合い、綱引の予行のようにも見える。歌は「お久米口説き」。テツナッゴは手をつなごうがなまったもの。ヨメジョはテツナッゴの前を通り過ぎ、谷川橋右岸に据え置かれる。
テツナッゴが終わると、二才たちは一旦公民館に戻る。再び口説き歌を威勢よく歌いながら、3列縦隊で坊泊小学校正門前まで行進。小学校正門前ではドントセという習俗がある。ドントセは「どんと押せ」がなまったもので「おしくらまんじゅう」の意。掛け声は、お久米口説きの相の手に入れる、ハッレヤナーハッレヤナーヤットコセー。
十五夜前日にツナネリ、当日にはシベ踊りがある。
次に既存調査報告書から、枕崎市、南九州市、指宿市のカヤ集め事例を要約して紹介しよう。
○枕崎市東鹿篭山口 8月1日からカヤヒキ。カヤ束ができると子供たちは、カヤを頭から被り、その上にヘゴガサを頂き、山を下りる。15日に綱ねり。綱引では、子供が手拭製の三角円錐形帽子を被る。〔小野1972、9〕
○南九州市川辺町高田城下 材料採集は十日間ほどかかる。綱はカンネンカズラを芯に、カヤ、ワラをないつける。十五夜には、子供たちはワラの腰ミノ、円錐形の尖った帽子を被る。綱引が終ると相撲。〔小野1972、13〕
○南九州市穎娃町上別府加治佐 8月1日からススキ刈り・カヤ引き。子供たちはカヤでヨイヨイ笠をつくり、「ヨーイ、ヨイ、ヨイ」と大声で唱えながらカヤを山から下ろす。15日綱作り、綱引。〔小野1972、16〕
○指宿市開聞入野 カヤは子供組がカヤ山に引きにゆき、持ち帰るのは親たちが手伝う。十五夜には子供は手拭を円錐形に巻いて後ろに少々たらし、緒を締めた高帽子状のものを被り、綱引。その後相撲。〔小野1990、226〕
これらの習俗を俯瞰すると、子供たちが山に入り、カヤを採集して下ろすということが、重要視されていたことがわかる。
小野重朗氏は、カヤ下ろしの姿(小野氏はトビと表現している)を手本にして、ソラヨイの扮装の一部であるヨイヨイ笠が発生し、さらに手拭の円錐帽子、シベ笠へ発展したと述べている。〔小野1990、230〕
小野氏は続けて、カヤ下ろしの子供たちが十五夜に村を訪れる神々であり、カヤのトビはその人ならぬ神の正装であると指摘している。しかも、その子供たちは、カヤ下ろしから綱引、相撲と十五夜行事が終わるまで訪れ神として行動するという。そうした中、「カヤは綱の材料に使ってしまうし、重いカヤのトビを続けて被るのはたいへんなので、カヤのトビを模造したワラのヨイヨイ笠とミノとハカマを身につけたり、もっと簡易な手拭の円錐形の帽子やシベ笠を代用して神の扮装として用いている」と述べている。〔小野1983、231―232〕
さて、ここまで紹介した事例について、その構造を整理してみよう。
つまり、@材料集め(カヤヒキ・カヤ束作り・カヤ下ろし)→A綱ねり→B綱引→C相撲となる。@の部分には多彩な展開を見せ、カヤ束作りには番茅作りやヨメジョ作り、カヤ下ろしには火とぼし、テツナッゴ、ドントセなどが見られた。またカヤ下ろし時の装束としてカヤ被り、ヘゴガサ被りがあり、口説歌や愛宕参りの歌も大切な要素となっていることが分かる。
動画:十五夜ソラヨイ - 中福良ソラヨイ・浮辺ソラヨイ・打出口ソラヨイ
資料:南九州市川辺町下山田下村・大倉野[十五夜綱引の構造]→