坊ほぜどん・十二冠女
「坊ほぜどん・十二冠女」基礎データ
坊ほぜどんは、坊津町坊八坂神社の秋祭り豊祭の還幸行列です。獅子舞に赤・黒鬼面の露払い、幟旗、サイセンバコと呼ばれる桶を掲げた振袖姿の少女「十二冠女(じゅうにかんめ)」、御囃子(法被姿の少年の太鼓に巫女姿の少女の笛)、お神輿と続きます。
- 場所:鹿児島県南さつま市坊津町坊 八坂神社( - ぼうのつ・ぼう - )→地図
- 日時:毎年10月第3日曜日 午後1時30分から
- 文化財指定:なし(一般文化財・無形民俗)
- メモ:十二冠女の行列が見られるのは、10月第3日曜日、お旅所からの御還幸行列です。その前夜「内祭」で、お旅所へ御遷幸しますが、こちらには幟旗と御神輿だけの行列です。お旅所は3集落(上之坊・中坊・鳥越)の公民館が、毎年交代であたります。十二冠女のカンメは、鹿児島弁で載せる(冠る)という意味で、頭上運搬のヘワ(クッション)を挟み、その上にサイセンバコと呼ばれる桶(魚桶)を載せたものです。もとは12歳の少女が12人いたそうですが、2012年は過疎化で9人になっていました。
「坊ほぜどん・十二冠女」写真と解説
1.坊ほぜどん・十二冠女の概要
(1) 名称
坊八坂神社の、御神幸行列を伴う秋の祭礼で、地区民には「ほぜどん(豊祭殿)」として親しまれている。正式には神事を八坂神社秋季例大祭、祭礼全体を祇園祭と称しているが、鹿児島市のように「おぎおんさぁ」と呼ばれることはない。
(2) 伝承地
坊八坂神社での内祭の後、御旅所になる公民館へ御遷幸し、翌日に御旅所から坊八坂神社へ御還幸する。御旅所はもともとは船主の家で、戦後倶楽部(集落公民館)、その後町立児童館、現在は再び集落公民館となっている。御旅所になる集落公民館は三つあり、鳥越→中坊→上之坊が毎年順番に務める。この三公民館が御旅所となっているのは、明治42年に一宮大明神(下浜)、霧島六所権現(上之坊)、熊野権現(鳥越)が、合祀されたことによるという。
(3) 伝承日時
もともとの祭礼日は、旧暦9月15日で、明治43年から大正12年まで新暦11月15日、大正13年から新暦10月15日であった。昭和59年からは新暦10月第3日曜日になった。15日に固定されていた頃は、平日になっていると学校を午後から休みにしてもらい、地区挙げての祭りとしてやっていた。
(4) 伝承組織
八坂神社氏子総代会・祇園祭実行委員会(坊ほぜどん実行委員会)の主催。
神事を執り行う八坂神社の氏子の範囲は、神社のある坊之浜、明治42年に八坂神社に合祀された神社の元氏子であった中坊・上之坊・鳥越。御旅所にはならないが、坊之浜集落も氏子で、直会の当番もある。下浜・上中坊は別の神社を祀っている。松ケ迫は新しい集落。
祭礼を行う実行委員会は、大字坊のすべての集落と各種団体で構成されており、ご神幸行列は地区挙げての行事。
(5) 由来伝承
坊津に配流された近衛信輔(信尹)に由縁が深いとも伝えられ、無病息災に豊作・豊漁・商売繁盛を願う。
2.坊ほぜどん・十二冠女の実態
(1) 内祭
祭りは前夜祭となる「内祭」と、翌日の「本祭」からなる。内祭の神事のあと御旅所への御遷幸、本祭の神事のあと神社への御還幸がみられる。御還幸では十二冠女(じゅうにかんめ)と呼ばれる桶を頭上に載せた少女たちの美しい行列がみられる。
内祭は、八坂神社で行われる宵祭りで、元は14日の潮が満ちるのを待って神事を行った。現在は午後七時から行う。
神事の後、御旅所への御神幸がある。行列の順序は、高張燈提の明かりのもと、①大鉾、②真榊、③祭具(鳥毛、槍、旗など)、④楽器(太鼓、笛、手拍子)、⑤神官(伶人)、⑥社旗、⑦御輿の順で、後ろから御供奉が続く。この御遷幸には十二冠女は付かない。
御旅所(今は公民館)に着くと、午前零時を期して神事、神舞があり、泊まって寝ずの番をする。
元坊津町立歴史館長の佐藤順二氏が主宰していた坊津史談会の「昭和59年10月19日坊津史談会例会資料」では、内祭を「丑の刻祭(うっのまつい)」と記している。またこの資料によれば「御旅所は以前は浜の船主の家であったため、行列が早く着くので里人は『早くゆかないと見損う』といって競ってでかけたもの」という。さらに、「夜は眠気さましに花桶(はなたんご)に甘酒をつくり、これを飲むのが習わしだった」ともある。
(2) 本祭
本祭は御旅所で、元は15日昼の潮をみて神事を始めていた。現在は午後1時から神事、午後1時半から御還幸がある(事項参照)。
御還幸後、神事を執り行う。遷座、昇神(神主が、「うおー」という警蹕の声を出す)、修抜、献饌、祝詞奏上、玉串奉典、撤饌、閉扉、直会の順。
現在は直会は坊泊地区公民館で行い、午後三時半からは奉納演芸祭がある。
昔は、この祭りのために、船止めしていたという。史談会資料によれば、「この日は、泊は勿論、方々から親類縁者が集まる習わしで、坊の家庭では甘酒やごちそうをつくって歓待した。」
(3) 御還幸行列(十二冠女ほか)
ご還幸行列の順番は、①先払い、②シベ行列、③十二冠女、④囃子、⑤賽銭箱、⑥宮司・伶人、⑦社旗、⑧御輿、⑨御供奉となる。
この行列の周りを赤面・黒面という猿田彦面をつけ、棒を持った青年がいる。「群衆の整理に当たる」と言われる。また獅子舞も付き、祭りの風情を出している。
①先払いは、大鉾・下切型金幣・真榊・祭矛・大旗(錦旗)・祭具(鳥毛、紫翳、管翳、槍等)と続く。
②シベ行列は、紙垂の付いた榊を幼児が持ち、母親がそれにつきそうもの。このシベは祭りのあと各家庭にかざって魔除けにするという。シベは家内安全・無病息災を願って、各集落で配る。戦後、お金を取るようになった。
③十二冠女は、振袖で着飾った少女たちが、御幣の付いた魚桶状のものを頭上に載せた行列で、坊ほぜどんの特徴となっている。元は十二歳の少女十二人が行った。鹿児島弁で「冠る」をカンメルと言い、そこから、この行列をジュウニカンメと呼ぶ。
少女たちが載せる魚桶は、カンメボウシとも、サイセンバコとも呼ばれる。名前のとおり賽銭箱の役目をし、道中で参拝者から賽銭をいただく。いただくときはかがんで入れやすくする。賽銭が入ると重くなり、ご神幸の終わりには母親が手を添えて支える。
実測したサイセンバコは、長さ64cm、幅30cm、厚み0.5cmの底板に、長さ48cm、幅26.5cm、高さ10.5cmの曲げ物を載せてある。底・曲げ物ともに杉製。それに高さ43.5cmのシベ(御幣)を4本差している。
前記の史談会資料によれば、由来は不明で、「明治初年にはなかった」という。また人数は、「始めは数に制限がなかったらしいが途中で12に限定されたらしい」とある。
古老によれば、昔は晴れ着を準備するのも大変で、簡単には十二冠女にはさせられなかったという。戦後になると希望者も増えていったが、今度は過疎化でなり手が少なくなり、今は各集落で頼んでいるという。坊以外の人にも頼み、泊地区やゆかりのある市外の人にもしてもらっている。
④囃子は、青い法被姿の青年の太鼓(台車に乗せてある)、同じく青年の手拍子、白衣に緋袴の少女による横笛と続く。
⑤賽銭箱も台車に乗せた大きなもの。
⑧神輿も台車に乗せてあるものを神社氏子役員が押す。上記「史談会資料」によれば、明治17年の岩おこし風の時に神輿も壊れ、現在のものは明治20年頃坊の船主や船員が寄贈したもの。大正3年・昭和28年・昭和43年に修理。
赤面・黒面には、明治20年頃船主が寄贈したものと、中川喜次郎氏が昭和40年代寄贈したものとがある。「面は酒を飲んでふざけて、恐ろしいくらいだった」という。
獅子は、大正3年に坊の機関士会が寄贈してから始まったという。
神具類は、神社で保管している。
3.坊ほぜどん・十二冠女の特徴と意義
①坊ほぜどんは、八坂神社の大祭であるので祇園祭ともされるが、ここでは鹿児島の秋祭り「ほぜ」の一つととらえるべきである。
②この祭りは、シベ行列に象徴され京都八坂神社祇園祭の御霊信仰につながる無病息災を願う意味とともに、海運業・商家の商売繁盛、鰹船の船主・漁師たちの豊漁祈願といった、複合的な意味を持った祭礼と言える。
③伝承や先学の研究を踏まえれば、この祭礼の神幸行列が、十二冠女を特徴とした今の姿になったのは、近代に入ってからだと考えられる。
⑤十二冠女の習俗は、鹿児島市の「おぎおんさぁ」でも見られるが、坊津で伝承されていることは興味深い。坊津は頭上運搬が盛んであった地域であり、その点から伝播の新旧を考える必要がある。
「坊ほぜどん・十二冠女」記録映像・記録画像
〔実地調査〕
1991.10.21(中坊) ・2003.10.19(鳥越) ・ 2012.10.21(鳥越) ・ 2015.10.18(鳥越) ・ 2016.10.16(中坊)筆者調査。
[参考文献]
編纂委員会編 1969 『坊津町郷土誌』上巻・下巻 坊津町
坊津史談会 1984 「昭和59年10月19日坊津史談会例会資料」