鹿篭の太鼓踊り
「鹿篭の太鼓踊り」基礎データ
鹿篭の太鼓踊りは、枕崎市西鹿篭・東鹿篭に伝わる念仏踊り系の荘厳な太鼓踊りです。鉦一人、入れ鼓一人。大太鼓は「ナカオドリ」と呼ばれます。
- 場所:鹿児島県枕崎市西鹿篭の南方神社( - かご・みなみかた - )・東鹿篭の天御中主神社(あめのみなかぬし - 。通称「妙見神社」)→地図
- 日時:毎年10月28日南方神社・10月29日妙見神社 午後から
- 文化財指定:なし(一般文化財・無形民俗)
- メモ:二つの太鼓踊りともに、南方神社・妙見神社双方に奉納されます。南方神社では氏子である西鹿篭の踊りが、妙見神社では東鹿篭の踊りが先になります。また、枕崎市山口の棒踊りも奉納されます。
「鹿篭の太鼓踊り」写真と解説
1 鹿篭太鼓踊りの概要
(1) 名称
鹿篭地区の秋祭り「ほぜ祭り」で神社に奉納され、地区内を披露して回る太鼓踊り。踊りには西鹿篭・東鹿篭の二組がある。西鹿篭太鼓踊りは、踊り子を出せる集落の減少で、現在は二集落の「山下・水流太鼓踊り」として活動している。「東鹿篭太鼓踊り」は、篭原・瀬戸口・中村・下園の四集落の踊り子で構成されている。
(2) 伝承地
二踊りとも、10月28日は西鹿篭の南方神社で奉納して地区内を回り、翌29日は東鹿篭の天御中主神社(妙見神社)で奉納、地区内披露となる。南方神社では地元の西鹿篭太鼓踊りが先に踊り、一方、天御中主神社では東鹿篭太鼓踊りが最初に奉納される。
(3) 伝承日
10月29日(元は旧暦9月28日)・29日の両日。
(4) 伝承組織
西鹿篭の太鼓踊りは、南方郷の郷社南方神社に奉納してきた。町村制施行前には、西鹿篭地区各集落だけでなく、同じ南方郷に属した坊津(現在南さつま市)からも踊り子が出された。太鼓の皮の裏に「草野二才中」(草野は坊津の集落名)と記されている太鼓が保管されている。その後、町村制施行で西南方村(のち坊津町)となったため、坊津からは参加しなくなったという。
明治末期頃は、山下、水流、通山、牧園の各地区が参加していた。戦時中は中断し、昭和24年の市政祝賀に参加したのを契機に、山下・水流二集落の踊り子で復活。その後昭和29年に山下公民館単独となったが、踊り子不足で昭和41年に再び中断した。昭和55年、若者の帰郷で青年が増加し、昭和57年に16年ぶりに復活した。昭和62年には水流公民館との合同が実現し、「山下・水流太鼓踊り保存会」として活動している。
「東鹿篭太鼓踊り保存会」は、篭原・瀬戸口・中村・下園の四集落で構成している。戦前までは小園集落も入っていた。戦中に中断し、昭和25年ごろ一集落だけで復活。しかし、昭和30年代後半に再び中断。昭和48年に復活した後、現在まで続いている。
(5) 由来伝承
島津義弘が、兵を鼓舞するため踊らせたものだと伝えられている。ややテンポが速く躍動的な東鹿篭の踊りが出陣の踊り、ややゆったりと荘厳な西鹿篭の踊りが凱旋の踊りと伝わる。
また、次のようにも伝わる。「当時の鹿篭領主喜入忠続は、太守の命によりこの踊りを諏訪神社(南方神社)に奉納し、以後、毎年例祭日に奉納した。例祭日と豊祭が同じ日であったため、今では豊祭の踊りとされている。」〔『鹿児島県の民俗芸能』158頁〕
2 鹿篭太鼓踊りの実態
(1) ほぜ祭り
鹿児島では秋祭りをホゼと呼ぶ。下野敏見によれば、①方限(薩摩藩の集落単位)の祭りとしての方祭説、②豊年祭りの豊祭説、③放生会説があるが、県内の八幡神社との関係から考えると放生会説が正しいとする〔鹿児島大百科事典「ホゼ祭り」の項〕。
10月28日の南方神社例大祭は「ほぜ祭り」と通称し、実見した2016年は、午前10時から拝殿で神事、「巫女舞」として浦安の舞を奉納。浦安の舞は氏子の小中学生が踊る。午前11時半からは、隣接する護国神社で秋季大祭の神事・浦安の舞奉納があった。午後1時から南方神社境内で、奉納芸能として西鹿篭太鼓踊り(山下・水流太鼓踊り)、山口棒踊り、東鹿篭太鼓踊りがある。
翌10月29日の妙見神社でも午後から神事のあと奉納芸能があり、こちらでは地元の東鹿篭太鼓踊りを先に、次に山口棒踊り、最後に西鹿篭太鼓踊りの順になる。
(2) 西鹿篭太鼓踊り(山下・水流太鼓踊り)
世話役のもと、鉦1人・入れ鼓1人・「踊り手」と呼ばれる大太鼓20名ほどで構成される。2016年の「踊り手」は16名。鉦は13歳から15歳、入れ鼓は鉦より2、3才年下の少年が踊る。「踊り手」はかつてナカオドリと呼ばれ、青年が踊った。現在はベテランも多い。また西鹿篭ではヒラオドリと呼ばれる踊り子もあったが、現在は廃止されている。道中での先導役であった。当時は鉦・入り鼓からナカオドリ、ヒラオドリへの年齢階梯制が見られたという。
カネ・入れ鼓は鯉の滝登りの模様の木綿の着物に花笠姿。白足袋に麻裏草履を履く。笠の上には蛇の目状の花飾りが三方向に向けて付けてある。あたかも頭上に目があるように見える。カネは右手に鉦を、左手に橦木(「シモッ」と呼ぶT字型の桴)を持つ。入り鼓は首から胸の下に垂直に吊り下げた小太鼓を、両手に持った桴(「ベ」と呼ぶ)で叩く。
鉦は数個あり、実測したものは、直径18cm、厚み5cm。昭和58年など寄贈の年号がある。鉦の撞木は、長さ25cm、幅19cm、厚さ2cm。打つ部分はカシの木・柄はスギで作ってある。予備に20本ほど準備しており、ちびてきたら、踊りの途中でも、取り換える。入れ鼓の鼓は幅24cm、直径24cm。胴の直径は15cm。十か所で締めている。鼓の桴は長さ21.8cm、直径0.8cm、クワの木製。鉦・入れ鼓の花笠は、シベ(下部)の長さ36cm(顔の前の部分は短く長さ22cm)、花(上部)の長さ36cm、直径33cm。
踊り手(ナカオドリ)は、白かすりの浴衣に、カビーモン(被り物)という朱色の布(モス)を頭からかぶって背中まで垂らす。顔の前には縦に長い長方形の紗の布(ベール)を掛けて、顔を隠す。顔を隠すのは神社で奉納するときのみで、地区内各地での披露では被らない。黒帯を締め、白地の手ぬぐいを垂らしている。手ぬぐいには丸に鳥居の意匠があり、下に「太鼓踊」とある。鳥居は「西」を表しているのだろうか。黒足袋にわら草履を履く。浴衣に矢旗は背負わず、太鼓は肩から腹の前に垂直に吊り下げ、両手に持った桴(「ベ」と呼ぶ)で打つ。
大太鼓は、直径48cm、厚さ27cm。大太鼓の桴は、長さ19cm、直径3cm。タラの木製。
踊りの隊形はカネ・入れ鼓を取り囲むように踊り手(ナカオドリ)が円陣を組む。踊り手が踊りながら歌う。行列時は、正面から向かって左側に鉦・入れ鼓・踊り手、右側は全員踊り手の、二列縦隊になって行進する。円陣になるときは、鉦・入れ鼓が中央に進み、踊り手が右回りに円を作る。頭上や腰の後ろで桴をカチンと叩くのが粋である。
南方神社での歌には、次の三つがある。曲調は粋なもののゆったりしていて、踊り全体が盆踊りのように感じられる。
○ヨツベ(四つ桴)踊りの歌詞
「熊谷次郎直実殿は敦盛殿を打ちふせた。敦盛殿は組み伏せられて世に苦しげの息をつく」
○スイベ(摺り桴)踊りの歌詞
「ヘゴ(肥後?)の高城のニホノ松、ヘゴになびかぬニホノ松。音に聞こえし高砂の、松に映ゆるは常盤山」
○ヒッ(引き)踊りの歌詞
「川の瀬にそう鮎をとる。イーエ、イーエ、イーエ、イエ、サーラサラーアと鮎をとる」
また、妙見神社の奉納では次の歌が引き踊りの前にある。
○ヒトツベ(一つ桴)踊りの歌詞
「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると。前は石川濁ごされた、人がにごせばぜひもない」
2016年は、練習を3週間行い、ほぜ祭りを迎えた。鉦・入れ鼓は桜山中学校1年と桜山小学校5年の兄弟で、3年目の踊りとなった。28日は午前11時に山下公民館に集合し、正午から公民館打ち込み、午後1時から南方神社へ奉納した。その後招魂塚打ち込み、病院・JA・市役所での披露、水流公民館打ち込みを経て、午後5時半から山下公民館で最後の打ち込みを行った。
翌29日は午前10時半山下公民館集合、公民館打ち込みのあと、妙見神社で昼食をとり、東鹿篭・山口の踊りに続き、午後1時45分から奉納踊りを行った。保育園での披露、小園・宇都公民館での打ち込みの後、午後5時に山下公民館に戻り最後の打ち込み、午後7時から打ち上げ(慰労会)となった。
(3) 東鹿篭太鼓踊り
東鹿篭太鼓踊りでは、鉦(1人)・入れ鼓(1人)・ナカオドリ(20名程度)のほか、西鹿篭にかつてあったヒラオドリに相当する「シンボオドリ(シンボおどり)」が残る。2016年に実見したシンボオドリは4名。
鉦・入れ鼓・ナカオドリの衣装・楽器は西鹿篭と同様だが、鉦・入り鼓の振袖が、西鹿篭では緑地、東鹿篭では青地になっている。また、ナカオドリが黒帯から下げる手ぬぐいが青地で、「東鹿篭太鼓踊」とある。帯からは紅色の巾着も垂らしている。
シンボオドリは、長袖のついた襦袢に、下はバッチというズボン下、黒の脚絆にわら草履履き。帯は鶯色。太鼓の位置がナカオドリより高く、動きも躍動的。
シンボオドリは道中・入場でナカオドリと異なり、大きく太鼓を左右にゆする。道中では先頭の鉦・入り鼓に続き隊列を組む(写真1)。ナカオドリはそのあとに続く。境内に到着すると、鉦・入り鼓が中央に入り、シンボオドリは左回りに、ナカオドリは右回りに円陣を作っていく。円陣ができると、シンボオドリは円陣から外れ、しゃがんで踊りを見守る。
歌には次のものがある。
○ヨズベ(四つ桴)踊りの歌詞
1.「敦盛どのはおいそそぐ、村はしとみ弓てんじ、真羽の矢そろへ十二すじ」
2.「少年の年は十六歳、いくさはけさの始めなり、いくさはけさの始めなり」
○スイベ(摺り桴)踊りの歌詞(南方神社で奉納)
1.「今後の富士野の牧狩は、諸国大名の馬ぞろえ」
2.「曽我のぜ五郎のある兄弟は、親の仇をこころざす」
○ヒトツベ(一つ桴)踊りの歌(妙見神社で奉納)
1.「しょうめんへよせて、松に雀が巣をかけた、さこい雀の住みよかろ」
2.「音に聞えし高砂の、松の映ゆるはときや山」
○ヒッ(引き)踊りの歌詞(十五夜綱引きの歌)
1.「あたご参りでソウリハそうでも引かれた、アサそうれもあたごのソウリハソウ、でもそうかなおもしろやサーッサ」
東鹿篭太鼓踊りも、神社での奉納のあと、事業所や病院・介護施設を慰問して披露する。
3 鹿篭太鼓踊りの特徴と意義
①中入りが鉦1名・入れ鼓1名で構成されている。この構成は南薩地区では、鹿篭地区と南さつま市坊津町久志でのみ見られる。
②歌は大太鼓のナカオドリが踊りながら歌う。鉦の音と歌声とが重厚に響き、荘厳さがより強調された、念仏踊り系の太鼓踊りと言える。したがって、「ほぜ祭り」の奉納芸能としての豊作感謝の踊りであるとともに、先人の供養、あるいは遺徳をしのぶという要素が強い踊りと考えられる。
③東鹿篭にはシンボオドリと呼ばれる先払いが残る。西鹿篭でも同様のヒラオドリがあったが、現在はない。先払いがあるものには、南九州市川辺町勝目の上山田太鼓踊り・中山田太鼓踊りにワラフリと呼ばれる踊り子がある。こちらは太鼓を持たず、ササラ状の採り物を両手に持って大太鼓の楽に合わせて盛んに振る。
④南さつま市津貫での事例をはじめ、大太鼓の踊り子を「ヒラ」と呼ぶ地区が南薩には多い。東西鹿篭ではこれをナカオドリと呼んでいるが、それに相当するのが他地区では「ヒラ」となっている。
⑤小野重朗が指摘する「ヒラオドリ」→「ナカオドリ」→「世話役」という流れを他地区の名称と比較すると、他地区では「ヒラ」→「世話役」である。かつて鉦入れ鼓・先払い・大太鼓の三重構造であったものが、鉦入れ鼓・大太鼓の二重構造になったと考えれば、西鹿篭でヒラオドリがなくなりナカオドリだけになったのと、名称の逆転はあるものの、同じ現象と理解することができる。すると勝目の例は、その先払いが大太鼓に吸収される移行期とも位置づけられる
「鹿篭の太鼓踊り」記録映像・記録画像
〔実地調査〕
2011.10.29天御中主神社(妙見神社)
2016.10.28山下公民館・南方神社
〔参考文献〕
鹿児島県教育庁文化課編 1992 『鹿児島の民俗芸能―民俗芸能緊急報告書―』 鹿児島県教育委員会
下野敏見執筆担当 1981 「ホゼ祭り」(『鹿児島大百科事典』 南日本新聞社)
小野重朗 1963 「西鹿篭太鼓踊り」(『鹿児島県文化財調査報告書第10集』所収、1993 『南日本の民俗文化Ⅳ 祭りと芸能』 第一書房 再収)
小野重朗 1992 「枕崎市東鹿篭太鼓踊り」(鹿児島県教育庁文化課編『鹿児島の民俗芸能―民俗芸能緊急報告書―』 鹿児島県教育委員会)