亥の日の石突き

「亥の日の石突き」基礎データ
亥の日の石突きは、旧暦10月亥の日に西日本各地で行われる亥の子(いのこ)行事の一つです。子ども達が歌を唄いながら、石で地面を突き、豊作感謝と、イノシシの多産にあやかって子孫繁栄を願います。
場所:鹿児島県指宿市十二町片野田(いぶすき・じゅうにちょう・かたのだ)片野田公民館広場 → 地図
- 日時:旧暦10月第2亥の日に近い日曜日
- 文化財指定:なし(一般文化財・無形民俗)
- メモ:2016年に拝見した時は、午前10時頃から石突き、続いて台座突き、それが終わると、公民館で餅を搗いて参加者みんなでいただきました。
「亥の日の石突き」写真と解説
1 亥の日の石突きの概要
(1) 名称
亥の子行事の一つで、「亥の日の石突き(いのひのいしづき)」と呼ぶ。亥の子突きとは言わない。
(2) 実施場所
現在は片野田公民館の庭で行う。
片野田集落は、旧国道を挟んで南側を「片平」、北側を「片野田」という。復活前は、片平と片野田それぞれでこの行事をしていた。片野田は氏神神社の前で、片平は公民館東の三叉路でしていた。
(3) 実施時期
日にちは以前は旧暦10月の第2亥の日で、現在はそれに近い日曜日に実施している。
(4) 伝承組織
片野田公民館の行事。
2016年の小学生は28名。昔は子供だけの行事だっという。
戦後しばらくやっていたが、子供が少なくなり、昭和35年ごろから中断した。その後、今から30年ほど前、公民館行事として復活した。
(5) 由来伝承
「神様が山に帰る前に、豊作を感謝する行事」だといわれている。何の神様なのかは、わからないという。
また、石突きで、ネズミやモグラ、ミミズをを追い出すためだともいう。
亥(猪)の多産にあやかり、無病息災、縁結び、子孫繁栄を願うともいう。ミトモチ(夫婦餅)と言う言葉は、ここでは伝わっていない。歌は「差別的な歌詞もあるので、唄うのがはばかられる」という。
2 亥の日の石突きの実施内容
(1) 道具・料理
当日使うのは、「石」と「台座」。「石」を実測すると、長さ30センチ、幅23センチ、厚さ16センチ、卵型の凝灰岩で、重さは11.2キログラムあった。それに針金を巻き、そこにロープをつなげる。実見した2016年はロープ11本。長さ355センチ。「台座」は、カンネンカズラ(クズ)を編んで作ったクッション状のもので、これにもロープがつなげてある。実測すると直径70センチ、厚さ5センチであった。2016年はロープを14本つけてあった。
石は「今は公民館の倉庫にしまってあるが、昔は三叉路の脇(三叉路南西側のキンチクの竹やぶ)に投げ入れていた。どこにやったのかわからなくなっていたが、たまたま発見され、それを機会に石突きを復活させた」という。
復活前は、午後6時~7時頃、子供たちが、各家から荒縄を1本ずつ持ってきて、それを付けて引き綱とした。30本ほどにもなったという。今は既成のロープをつけている。また荒縄をつける針金も、元は竹を割ったイデと呼ばれるものを使った。
台座を編むカンネンカズラは、昔は子供組の「カシラ」(中学校1年生)を先頭に、子供たちが山に取りに行っていた。
昔は、この日各家庭で豊作を感謝して、新米で餅をついていたが、今は家で搗く人はいなくなった。家を回って餅をもらうということは、ここではしなかったという。
現在は公民館での石突きのあと、参加者全員で餅をいただく。準備は前日からもち米を研いで寝かせ、当日午前9時から公民館前の特設のかまどに火を入れ、甑を乗せて蒸す。
(2) 石突きの方法
もともとは、三叉路の中央に石を埋め、放射状に引き縄をつけた別の「石」を、歌を唄いながら綱を引くことにより上下させて、たたきつけた。現在は下になる石は公民館の庭にあらかじめ埋めておき、それを「石」で突く。
「台座」には子供を乗せて、「石」突きと同じ要領で上下させる。下には藁が敷いてあり、これは道路でしていた頃も同様に敷いていたという。
(3) 「亥の日」の歌
イノーヒ モーツ ツカンター ダイカ
ウシトミチ ドンドン
カメズルガ ネドコイハ ドコジャロカイ
ヒガシマクラノ タナノシタ
コエガデントキャ ウンマンクソナブレ
――亥の日の餅を搗かんのは誰だろうか
後ろの道にどんどん
カメズルが寝床は何処だろうか
東枕の棚の下
声が出ないときは馬の糞をなめよ
〔片野田公民館2001年11月11日作成資料より〕
3 亥の日の石突きの意義
亥の子習俗は、「西日本の農村によくみられるもので、収穫儀礼と結びついた伝承が多い」〔日本民俗大辞典〕。習俗自体は同様であるが、指宿地方では「亥の子」や「亥の子石」とは呼ばず、亥の日の石突きと称している。
また、亥の日の習俗として、薩摩半島西岸では、モーモードンやモメモ、モチ引っ張れなどと呼ばれる習俗がみられる。南薩西岸では収穫後旧暦10月の亥の日に、田んぼにモチの入った藁苞を立てて豊作を感謝する。また、牛の舌のような餅を、子供がくわえて引っ張り合う。「モーモーモメモ、いっしゅま(1畝撒き)に13俵」などと唱える。
白石昭臣は「日本の亥子の行事は、自然の運行をもとにした農事暦のうえに、中国からの暦の知識と俗信とが結びつき、展開されたものと考えられる。」〔日本民俗大事典〕としている。小野重朗は、正月のハラメウチ習俗と対比し、「秋の収穫が終わって石や棒で突き固めて土地を閉ざして農耕を終える行事があり、それ以後、人も土地も農耕を止めて静かな休止の生活に入り、新しい年を迎えてから、再び土を掘り起こして、新しい農耕生活を始めるというのが秋から春にかけての古い季節儀礼であり、生活であった」と述べている。〔小野1996 87頁〕
亥の日の石突き行事は、かつて小野重朗が調査した時期には、指宿地方各地にみられたとされている〔小野1956〕。その後大半が途絶え、今回の基礎調査では、この片野田集落のほか、山川町後馬場集落から報告が上がっているのみである。南薩西岸のモーモードンも早期米が導入された地区では見られない。
今回調査した片野田集落では、豊作感謝の願いに加え、地域の絆を深める伝統行事として、改めて大切に継承しようとしている。
〔実地調査〕
2016.11.13 指宿市片野田公民館
〔参考文献〕
小野重朗 1956 「指宿地方の収穫祭」(1994『南日本の民俗文化Ⅴ 薩隅民俗誌』所収 第一書房)
小野重朗 1996 『南日本の民俗文化Ⅸ 増補農耕儀礼の研究』第一書房
福田アジオ他編 2000 『日本民俗大辞典』 吉川弘文館
〔初出〕
このページは、『鹿児島県の祭り・行事 - かごしまの祭り・行事調査報告書』(2018年、鹿児島県教育庁文化財課編・鹿児島県教育委員会発行)251~254頁所収の拙文「行事詳細調査報告48 亥の日の石突き」を補訂し、ビジュアル版にしたものです。