益山太鼓踊り
「益山太鼓踊り」基礎データ
益山太鼓踊りは、稲害虫の退散を願う虫追いの踊りです。ワラのバチで太鼓をたたきます。
- 場所:鹿児島県南さつま市加世田益山 益山八幡神社( - かせだ・ますやま - ) → 地図
- 日時:7月24日前後の休日 午後5時ごろから神社奉納
- 文化財指定:指定なし(一般文化財・無形民俗)。
- メモ:神社には駐車スペースがないので、近くにある益山地区公民館にとめさせてもらうと便利です。午後4時ごろに公民館を出発し、何か所か踊りながら神社へ向かいます。神社奉納のあと、さらに各集落を回っていきます。
「益山太鼓踊り」写真と解説
1.益山太鼓踊りの概要
益山太鼓踊りは、現在は新暦7月24日前後の休日に、益山八幡神社に奉納した後、大字加世田益山の各集落を回って踊る。
小野重朗の報告によれば、「打込の庭」という古墓のある所から踊りはじめたという〔小野1993 178頁〕。この太鼓踊りは、明治45年から昭和49年まで中断し、その後復活した芸能で、保存会の方に確認しても「打ち込みの庭」という言葉はすでに伝わっていなかった。古老によれば、益山の中小路集落にある放生会家(屋号オマエ)の前から踊り始める慣わしだったという。
踊り子の構成は、ナカウチ(カシタガネとヒラガネの鉦2人・小太鼓2人)とヒラ(大太鼓)からなる。2011年のヒラは12人であった。ナカウチは陣羽織に花笠、ヒラは白衣に鉢巻、矢旗を背負う。隊形はナカウチが内側に、ヒラが外側になる二重の円陣を組んで踊る。歌い手は円陣の外におり、踊りの歌詞の歌い出しには、「空行く雲」(ブチマワシ)、「末殿」(チュチン)、「高橋殿」、「豊後の国」(ナマッキリ)などがある。
大太鼓の桴はヤナギの木を芯に入れ、藁を巻いたもの。先にはシベが着いている。実測したものは、長さ40センチ。最近は藁の代わりに間に合わせにゴザを裂いた藺を巻く場合もあるという。
益山太鼓踊りは、歌の歌詞、踊りの曲調ともに、上山田・下山田と類似し、交流があったことがうかがわれる。
2.益山太鼓踊りの楽・歌詞
楽は道太鼓と本踊りとがある。【楽】
道太鼓
〇タナバタドン(二通り)
〇チヂミ太鼓( 〃 )
〇打チマゼ( 〃 )
〇五ツ太鼓( 〃 )
〇陣ノ屋
このほかに「走り太鼓」というのがあって、道太鼓にも打ち鳴らしていた。
本踊り
〇打ち込み(歌詞なし)
〇庭ツクリ( 〃 )
〇ブチマワシ 「空行く雲は…」
〇チョウチン 「すえ殿の…」
〇高橋殿
〇ナマッキリ 「豊後の国…」
〇ヒザツキ(歌詞なし)
〇引き太鼓( 〃 )
楽曲・歌詞は、『加世田市史下巻』340-341頁から引用。
【歌詞】
ブチマワシ
(1)空行く雲はどなたに行くか 日の本(ひのもと)に行くなら文をやる
(2)やりたいものはいくらもやる ゆかげと弓文(ゆぶみ)と 又は気付薬
※1番の歌詞は「加世田市史」では上記のように記されているが、現在は「日の本」を「日本(にほん)」と歌っている。
チョウチン
(1)すえ殿の御門のわきのいりせ垣 黄金(こがね)のつたがなりさがる
(2)すえ殿のお庭の景色を見てよれば 鶴と亀と昼寝して銭を枕に米(よね)はかる
高橋殿
(1)高橋殿の世が世の時は 白金延べてたすきにかけて黄金のますで米はかる
(2)向い野に鈴虫の声聞けば 朝草切りの眼をさます
ナマッキリ
(1)豊後の国の習いかな 関屋関屋で帯をとく やれ豊後の踊りは一踊り
(2)静かにおじゃれ旅の殿 関屋関屋で帯をとく やれ豊後の踊りは一踊り
3.益山太鼓踊りの特徴と意義
- まず第一に、古墓の前から踊り始めるという伝承から、開拓者と思われる地域の偉霊の力にあやかり、夏の稲害虫の退散を願い(虫送り)、よって豊作を祈願する踊りである。
- 大太鼓の桴は、藁を用い、これは南薩では益山と勝目だけに伝わる。虫送りの要素が強い日置地区(木の枝型の桴を用い、力強く太鼓を打つ)と、念仏踊りの要素が強い薩摩半島南西地域(藺草の桴を用いほとんど太鼓をたたかない)との、中間に位置づけられる。それぞれの要素が複合した踊りと言える。
→加世田の太鼓踊りの比較・検討は、「加世田の太鼓踊り」参照。
→参考:「薩摩半島における太鼓踊りの桴(バチ)」
「加世田の太鼓踊り」記録映像・記録画像
〔実地調査〕
1996.7.20・2011.7.16
〔参考文献〕
小野重朗著 1993年 『南日本の民俗文化Ⅳ 祭りと芸能』 第一書房
編さん委員会編 1986年 『加世田市史・下巻』 鹿児島県加世田市